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    machromatic

    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    芸術ってなんやねん!!!って誰も答えを持ってないから、俺が定義してやってるんだよ。(あいちトリエンナーレ2019から考え直すべき芸術的インフォームド・コンセント)

    最近のニュースで、
    あの問題になっていた、
    「あいちトリエンナーレ2019」の、
    「表現の不自由展」含め、
    全面的に再開するという事です。

    まぁ僕からすると、
    前時代的な争い?闘争?で、
    「非常にくだらない」わけです。

    この件で僕が直接的に受けた被害とすれば、
    僕も一応「アーティスト」と名乗っていますので、
    その「アート」が、
    この社会で「信用」というものを無くし、
    「芸術」というものを、
    また一段と理解できないものにしてしまった、
    その影響で、
    私もその様な「アート」という、
    得体の知れない「モノ」をやっていると、
    一緒に観られてしまうという被害です。

    少なくとも私は「アーティスト」と、
    名乗っていますが、
    「あいちトリエンナーレ2019」に、
    出品している様なアーティストとは、
    完全に別次元に存在していますし、
    「アート」に対する「スタンス」も、
    全く違うので、
    改めてしっかりと、
    その違いをお示ししておきたいのです。

    まず僕は、
    「アート」の「論理的理解」、
    「アート」の「定量的評価」、
    その様な、
    そもそも「アート」をどう定義するのか?
    そもそも「アート」をどう理解するのか?
    その様な事を、
    「普遍的」に研究し、
    これまで「発表」してきています。

    ではなぜ今回の様な「あいちトリエンナーレ2019」、
    の様な事件が起こってしまうのか?
    それはまさに、
    「論理的」「定量的」に扱おうとしないからであり、
    日本では特に、
    「芸術」というものは、
    その様なものでは計れないと思い込んでいる、
    その上で「誰も芸術を定義できない」わけですから、
    当然これは「芸術」なのか?
    という疑義が生まれる事は当たり前の現象です。

    少なくとも私は、
    「論理的」「定量的」に考え得る事は、
    「考え尽くす」ことが絶対的に必要であり、
    そもそも「考える」事を「放棄」することが、
    「芸術」に対する「真剣で真摯」な態度だとは、
    理解できないのです。

    私たち芸術家、アーティストは、
    「おそろしいほど真剣に芸術を考えなければならない」、
    そう考えているのです。

    現在のほぼ全ての芸術家やアーティストは、
    自らの作品が、
    なぜ「芸術」なのかという事を、
    芸術家やアーティスト自身が「理解」していないのです。

    それは日本では自明の事柄ではあるのです、
    例えば日本で芸術家、アーティストとして、
    地位を確立していく上では、
    組織や権威によって価値づけられ、
    その組織や権威によって、
    「芸術家」や「アーティスト」という、
    ある種「免罪符」を手に入れるわけです。

    つまり自分では、
    自分の作品がなぜ「芸術」なのか理解しないまま、
    「芸術家」や「アーティスト」になっています。

    対照的に私「美学者母」はどうでしょうか?
    私は「組織」や「権威」に、
    全く「価値づけ」されたこともありません、
    また「組織」や「権威」に、
    君は「芸術家」とか「アーティスト」などの、
    「免罪符」をもらったわけでもありません。

    では僕は一体なんなのか?
    それは自ら「芸術構造」などを研究し、
    「アート」や「芸術」を、
    「論理的」に理解し、
    「定量的」に価値づける事を、
    自らで自らの作品に行う事で、
    「芸術」を「成立」させているわけです。

    その内容はこの様に文章で社会や世界に、
    「オープンソース」にし、
    「芸術」を「民主的」に「成立」させる、
    試みでもあるわけです。

    現在の現代アート、現代美術では、
    このアートの構造というものを、
    自らの口で語るという事は非常に重要です。

    なぜならば、
    現代アート、現代美術では、
    作品は「金融商品」ですから、
    例えば「金」や「ダイヤモンド」と同じで、
    金の物質的構造、
    ダイヤモンドの物質的構造、
    それが真贋を決定する様に、
    現代アートや現代美術にも、
    「芸術構造」が絶対に必要であり、
    それがあるからこそ「金融商品」になり得るのです。

    ですから、
    日本以外特にアメリカなどでの、
    美術教育というのは、
    いかに自分の作品が「芸術」であるのか、
    その様なディベートが重要視されています。

    最後にまとめ、
    現在の日本のアート業界に全く足りないのは、
    芸術家、アーティストが、
    自らの作品が「芸術」である事を、
    「論理的」に「定量的」に、
    自らの口で社会や世界に説明しない、
    むしろ説明しない事が美徳であり、
    それこそが「芸術」なのだ、
    その様な間違った、
    現在での「アート」の認識が、
    今回の「あいちトリエンナーレ」での、
    「表現の不自由展」などの事件にも、
    繋がってくるわけです。

    そして、
    例えば「表現の不自由展」で展示された、
    問題の作品群が「芸術」であるならば、
    それはその「芸術構造」を、
    「論理的」「定量的」に説明する義務が、
    「芸術家」や「アーティスト」に求められる。

    そしてその「芸術構造」が、
    ある種社会や世界との、
    「芸術的インフォームド・コンセント」として、
    「合意」を得たときに初めて、
    現代においての「芸術は成立」するのである。

    最後に、
    私の目には今回の「あいちトリエンナーレ2019」、
    での「表現の不自由展」の作品群は、
    「アート」や「芸術」、
    「アーティスト」や「芸術家」、
    その様な「免罪符」を「乱用」している様にしか、
    見えないわけです。

    「表現のプロ」であるならば、
    「表現」を「自由」にもっと使えるはずで、
    「表現に不自由」な「人々」の作品を、
    「表現の不自由」というのは、
    それこそ私にとって問題外であるwww

    美学者母
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    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/10/11(金) 18:10:05|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    4. | コメント:0

    そもそもアーティストなんてアウトローな存在なのに、憲法や法律で保護してもらおうってのがキモチワルイ。(アーティストとは国家以前性の存在である)

    今「表現の自由」だ!!!
    とか言ってる人とか、
    アーティストでかなりの数の人が、
    ドヤ顔で言ってるのですがwww
    その人達ってそもそも、
    「アーティスト」の資質がないんじゃないだろうか。

    僕が本当に「キモチワルイ」なぁって、
    感じるのは、
    なんで「アーティスト」は、
    「国家」というものを「前提」に、
    「存在」していると思い込んでいるのだろうか?

    そもそも自ら「国家という定義」に、
    「定義」づけられようとしていて、
    「表現の自由」というもの自体も、
    「国家」における理念や意志なわけだ。

    僕の目から見ると、
    「表現の自由」だ!!!!
    って言ってる人ほど、
    本当に「自由」を獲得したいのか?
    と疑問に感じてしまうのねwww

    だって「自由」って叫んでる割には、
    「国家」というものに囚われてるわけじゃない?

    僕からすると本当に意味不明なんだわwww

    そもそも「アート」とか「表現」が、
    「国家」ってものを前提に定義されるのか?
    って事ね。
    「アート」とか「表現」ってのは、
    「人間」の「原理的欲動」であって、
    それは「国家」というものが、
    前提ではないわけです。

    そしてアーティストというのは、
    「自らの欲動」を「表現」するわけですが、
    その欲動というのは、
    その時代その時代のルールから、
    つまり「憲法」や「法律」から逸脱するのも、
    ある意味仕方のない事であり、
    それがある種の「アート」としての、
    役割でもあるのです。

    つまりアーティストが、
    「法を犯す」というのは、
    「表現者」「創造者」として自明であり、
    それを「恐る」事自体が、
    アーティストとして失格であると、
    僕は考えています。

    それはつまり、
    「アート」や「表現」が、
    「国家以前性」のものであるからであり、
    「国家」というものを「前提」に、
    存在するものではないからです。

    その様な事から理解できるのは、
    そもそも「アーティスト」というのは、
    一般社会からすれば、
    「アウトロー」な存在であるはずなのであり、
    その「国」の「憲法」や「法律」に、
    守られようとする事自体が、
    「アーティスト」として「ナンセンス」、
    である事が理解できると思います。

    私はそもそも、
    この「国家」において、
    「犯罪者」になることを全く恐れていませんし、
    実際に「その様な行為」も行ってきました、
    それが「善いとか悪い」では無く、
    それは「アート」や「表現」が、
    「国家以前性」のものであり、
    それが「アート」や「表現」というものであるのです。

    現在の日本のアートというのが、
    「国家」を前提にし、
    「国家」に守られ、
    「国家」を「権威の担保」としている限り、
    日本の「アート」は発展しないのでしょう。

    例えばこんな話もあります。
    外国から来た知識人が、
    どうして日本はこんなに「落書き」が少ないんだ、
    日本の若者たちは一体何をしてるんだ?

    この事は何を表しているのでしょうか?

    この様な「表現の自由」という、
    非常にコンサバティブな事自体が問題になる、
    日本のアートというのは、
    実は非常に「遅れている」わけです。
    それはある種「国家主義」的な考えが、
    自明性を持ち、
    あらゆるものが、
    「国家」を前提にされている。
    そもそも「国家」を前提にした「アート」、
    それ自身が「権威主義」であり、
    まさに「あいちトリエンナーレ2019」で、
    問題になっている「表現の自由」の問題は、
    「国家の政治」であり、
    「権威の覇権」であり、
    「ヘモゲニー」の争いであるわけです。

    国家を前提にした「アート」は、
    そもそも「政治」であることは、
    「自明」であるのです。

    そもそも「アウトロー」である、
    「アート」が、
    「国家主義」的「体制」に取り込まれている、
    それに反してテクノロジーやサイエンスが、
    「アート」が担ってきた、
    その様な役割を担ってきているのが現在です。

    テクノロジーやサイエンスでは、
    テクノロジーやサイエンスの進歩や、
    インターネットの普及で、
    国家という前提が無い世界が、
    大きく広がっています。

    そこから創造されたものは、
    憲法や法律を犯しているものも多くあり、
    それに合わせて、
    ルールが変わる事も多く見られます。

    例えば日本では、
    Winnyを作った金子勇などは、
    警察に逮捕、起訴されたが、
    最高裁が検察側の上告を棄却し、
    無罪になった。

    ではそもそもWinnyは、
    国家を前提にして生み出されたものだろうか?
    いやもっと言うと、
    そもそも国家を前提にして、
    そんなものは創造しえなかったであろう。

    そこから何が理解できるのか、
    私たちは「国家」というものを「前提」に、
    する事で、
    ある種の「クリエイティビティ」を奪われるのである。

    それは、
    「国家を前提にしない」という事で、
    初めて産まれてくる「創造性」があるからなのだ。

    それがまさに、
    テクノロジーやサイエンスで起こっている、
    「イノベーション」なのである。

    つまりこの様な事から、
    「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の自由」の問題がクリアになってくる。

    それは現在の「日本のアート」は、
    インターネット以前の価値観、
    つまり「国家を前提」としたもので、
    「アート」を考えているという事である。

    つまりそれは、
    「体制」と「反体制」という対立軸があり、
    「政治」が発生し、
    「権威」を信仰し、
    「スローガン」で動員する。

    なんとも古めかしいものである。

    インターネットが普及して20年、
    私が「ウェブアート宣言」を発表して10年、

    あと何年日本のアートが変わるのに必要だろうか?

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/29(日) 15:34:05|
    2. 美学・哲学
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    あいちトリエンナーレ2019でアーティストたちが言う表現の自由ってもうなんなのか解らなくなってるのはなぜだろうwww(いつまでアーティストは夢想を語るのか?)

    少なくとも一人のアーティスト、
    アート活動をしている人間として言うと、
    「表現の自由」なんて考えもしないし、
    はっきり言ってどうでもいいwww

    それはなぜか、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    僕は、

    「自分が表現したいものは絶対に創る」

    のであって、
    「表現の自由」なんてどうでもいい。

    例えば日本でキリスト教が禁止されてた時に、
    「隠れキリシタン」がいたわけで、
    すなわち表現とはそういう類のものであるわけです。

    それはどういう事かというと、
    つまり主体をどこに持つのかという事、
    例えば「隠れキリシタン」は、
    「己の信仰」を守ってそれを「表現」していた。
    それは「信仰の主体」が「個人」にあり、
    「個人」としての「信仰」、
    「個人の表現の自由」を守ったわけだ。

    しかし今問題になっている、
    「あいちトリエンナーレ2019」で問題になっている、
    「表現の自由」って全然違うよね、
    もはや「表現の自由」というスローガンの為の運動で、
    そこには「個人」としての「表現の自由」は関係ない。

    体制と反体制という構図を演出して、
    「表現の自由」というスローガンを利用し、
    ただ「体制批判」したいという、
    もう「芸術」とは程遠いものであるわけです。

    正に日本の「戦後体制」「戦後教育」の、
    行き着いた場所というべき「あいちトリエンナーレ2019」。

    僕の言葉で言えば、
    現在もアーティストと呼ばれる人々は、
    1970年代前後のベトナム反戦運動などの時代、
    つまりウッドストックに代表されるロックや、
    ヒッピーのムーブメントを、
    いまだに展開しているというかなり、
    時代が遅れている人達なんだねwww
    それを「ロックの時代」の人々と言ってるわけ。

    そしてそのロック自体の様式も、
    観客とステージは分離され、
    ステージは観客よりも高く、
    バンドセットという演奏を必要とする、
    つまりある種の演奏というものを学ぶという事は、
    エスタブリッシュメントを意味し、
    その様式は正に「体制」と「反体制」という、
    構造を作り出しているわけなのです。

    それに反し、
    現在の若者たちというのは、
    「ヒップホップの時代」の人々なわけです。

    そして僕は1978年生まれですが、
    日本のヒップホップ黎明期から、
    ヒップホップカルチャーに属し、
    実際にグラフィティライターをしていました。

    この「ヒップホップの時代」の人々は、
    「ロックの時代」の人々とどう違うのか、
    それは「ロック」というのは「夢想」を歌うわけですが、
    「ヒップホップ」は「リアル」をラップするわけです。

    それは哲学思想的に言えば、
    「プラグマティズム」的であると言えます。

    現在の世界を考えてもそうですが、
    日本の若者達ももれなく「実利」を、
    「意味ある事」として生きているわけです。
    「ロック」の様に「夢想」を歌っていても、
    「世界は変わらない」事を知っているのです。

    またヒップホップ時代の様式も、
    ロックとは違い、
    まず演奏を必要としません。
    更にラッパーと観客との間には、
    ステージという段差は無く、
    誰もがラッパーとして、
    ラップし始めることができる。
    その様な様式は、
    ロックの様に「体制」と「反体制」という、
    「分離」では無く、
    それぞれの個人が「主体」として、
    時には「観客」になり、
    時には「ラッパー」になる。
    すなわちそれぞれ「個人」が、
    その現場の「当事者」であるわけです。

    この様な事は決して「アートの世界」でも、
    例外ではありません。

    例えばバンクシーを考えてみてください。
    バンクシーは「アートの世界」でも、
    非常に重要なアーティストですが、
    彼はヒップホップカルチャーの、
    グラフィティライターなのです。

    彼はイギリスはもとより、
    世界中の壁に落書きをしています。
    それは正に「犯罪」であるわけです。
    しかしバンクシーのその落書きは、
    貴重に保存されたり、
    その壁ごとオークションで売られたり、
    その壁が観光名所になったりしています。

    ではバンクシーにとって、
    「表現の自由」とはなんでしょうか?
    それは、
    バンクシーにとって「表現の自由」なんて、
    どうでもいい事です。

    「表現の自由」そのものが、
    国家の理念であり意志なわけです。
    そもそも「国家自体が夢想」であり、
    その「夢想である国家」が持つ、
    「理念や意志」もまた「夢想」なのです。

    それよりも、
    現実的に自分自身が、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    どう世界に、
    どう社会に、
    影響を与えるのか、
    どの様な「機能」を有するのか、
    それが「ヒップホップの時代」では重要であり、
    「リアル」に「アクション」する事こそが、
    「善」であるのです。

    「もはや時代遅れである」

    悲しい事に、
    アーティストというのは、
    世の中で誰よりも早く、
    時代というものを読まなければならない、
    そいう存在であるわけですが、
    現在の日本のアーティストというのは、
    よりいっそう「時代遅れ」である、
    その様な現状です。

    先日文化庁が補助金を停止する、
    その様な事でまた、
    「表現の自由」の侵害だとか、
    まじ日本のアーティストたち、
    真面目に頭を使って本質を考えようwww

    まさに現在の「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の自由」というものが、
    「プラグマティズム」的な目的の転移を起こしている。

    「表現の自由」の為の「表現の自由」、
    目眩がするほど時代遅れ。

    「表現の自由」なんか糞どうでもいい、
    バンクシーでも例え話をしたのだが、
    「表現の自由」という言葉や意味、
    概念に囚われている事こそ、
    「本末転倒」である事になぜ気づかないのか?

    これを読んで頂いた方々には、
    ぜひ「表現の自由」という言葉や意味、
    概念の外側へ世界を広げてほしい。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/27(金) 19:10:12|
    2. アート
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    4. | コメント:0

    純粋芸術の原理としての社会との合意点(芸術の為の芸術は無意味でありそれは純粋芸術では無い)

    はい、芸術の秋!!!
    先日ビルボードライブ大阪で、
    久々に生演奏を聴いて、
    芸術を体験してきました美学者母です。

    それでいきなり表題の話に入りますが、
    私も20年以上芸術活動に取り組んできまして、
    特に肌で感じますのが、
    日本においての「芸術」というもの、
    特に「純粋芸術」、
    つまり「造形芸術」、
    まぁ「美術」において、
    「芸術」の為の「芸術」をする事が、
    「純粋芸術」であるとの思い込み、
    それを強く感じ、
    また実践されている方々を観てきたわけです。

    むしろそれが日本では自明な事であり、
    それは「美術」の世界だけでなく、
    例えば「哲学」や「科学」、
    はたまた「ビジネス」などの世界でも、
    幅広く言える事だと考えています。

    そもそも私たちは、
    何のために「美術」をするのか?
    それは他の分野でも同じですが、
    それは例えば、
    そもそも私たちは、
    何のために「生きて」いるのか?
    その様な問いにも繋がってきます。

    私たち人間は往往にして、
    根本的な目的を差し違えてしまっているのです。

    現在の日本の「美術」もまた、
    「芸術」の為の「芸術」が「純粋芸術」である、
    その様な差し違えを起こしているのです。

    本来「美術」というものは、
    原始美術から古典、近代、現代、
    どの時代にも「機能」というものを、
    有していたわけです。

    原始なら呪術的機能、
    古典なら宗教的機能、
    近代なら思想的機能、
    現代なら金融的機能。

    常に「美術」というものは、
    社会との接点、
    つまり「社会との合意点」で、
    その主たる社会において、
    「機能」を有していた事が理解できます。

    それはこの世界の真理であり、
    「そのものがそのものだけで存在し得ない」、
    つまり世界に存在するとは、
    常に「相対的」であるという事が真理なのです。

    つまり「美術」は「美術」だけでは、
    存在し得ない事が理解できます。

    それは「美術」というものは、
    どの時代にも「実利的機能」を、
    社会に有しているという原理なのです。

    しかし現在の日本での美術は、
    この「実利的機能」を有していない、
    そういう事が「純粋芸術」であり、
    「美術」であると思い込んでいるわけです。

    その上でなぜ「現代アート」や「現代美術」、
    と言われる現在の美術が、
    日本人に受け入れられないのか、
    その様な側面が浮き彫りになってきます。

    つまり、
    「現代アート」や「現代美術」は、
    「金融」という「実利的機能」を原理に、
    「純粋芸術」を成立させているからです。

    それは「純粋芸術」から「実利的機能」を廃し、
    「芸術の為の芸術」が「純粋芸術」である、
    その様に思い込んでいる「日本人」からすれば、
    それは受け入れ難い「現実」なわけです。

    しかしこの日本人の、
    「純粋芸術」は「芸術の為の芸術である」という、
    その思い込みが、
    「日本の純粋芸術」の明らかな「衰退」、
    の大きな原因だと考えています。

    ですから日本においての「純粋芸術の復興」というのは、
    まず「純粋芸術」における「社会的機能」、
    それが「純粋芸術の原理」であるという認識、
    それを文化として受け入れていかなければなりません。

    しかし日本人にとって、
    「純粋芸術」の原理としての「金融」という、
    「芸術構造」は、
    日本人にはなかなか馴染まなものであることは、
    私も20年以上芸術の活動を行なって、
    実感としてあるわけです。

    そこで私は、
    この20年以上の芸術活動を通して、
    自分の「純粋芸術」としての作品に、
    どの様な「社会的機能」を持たせるのか、
    その様な模索を行なってきました。

    初めはギャラリーや美術館、
    その様なホワイトキューブでの展覧会、
    などコンサバティブな活動もしたわけですが、
    私にとってそれは空虚感しかありませんでした。

    なぜならその様なギャラリーや美術館での、
    展覧会というものが、
    現代において社会的機能を果たしていないからです。
    この様なホワイトキューブが、
    機能を果たした時代もあったでしょう、
    少なくとも現代の日本において、
    ギャラリーや美術館は、
    社会的機能を何も果たせなくなっている、
    そう私は考え、
    それから一切展覧会などをしなくなりました。

    その理由は、
    「純粋芸術」には「社会的機能」という原理、
    それがあるからであり、
    少なくとも私は、
    「純粋芸術」というものを追い求めているからです。

    そこから私は、
    「私自身の純粋芸術」と「社会」との、
    「合意点」を見つけようともがき苦しむわけです。
    その様な中から産まれてきた「様式」が、
    「言語に造形性を観る」という、
    「言語アート」という「様式」で、
    これはインターネット上の言語に、
    造形としての言語を見出したもので、
    2010年に「ウェブアート宣言」として、
    発表しています。

    これは正に、
    「言語」「言説」という「社会的機能」を有した、
    私自身の「純粋芸術」であるわけです。

    更に、2016年頃に、
    狭山美学校というものを設立し、
    民宿の経営を始めたわけですが、
    これは実際の内装や演出、
    その中に設置する作品、
    またそのアーキテクチャ、
    全て含めて美学者母と相方哲学者大和の、
    「純粋芸術」であるわけですが、
    「社会的機能」としての「民宿」が、
    「純粋芸術」の「原理」としてあるわけです。

    私はこの様に「純粋芸術」を成立させる為の、
    「社会との合意点」というものを、
    長い年月をかけ模索してきたわけです。

    では「純粋芸術」と「応用芸術」の違いは?
    と皆さんは聞きたくなるのかもしれません。

    しかし簡単に解答する事ができます。

    それは「基礎研究」と「応用研究」の違いと同じです。
    つまり「純粋芸術」とは、
    まだ誰も発見していない、
    「純粋芸術」と「社会」との「合意点」を、
    「発見」しそれを「実践」する事なのです。

    「純粋芸術」とは、
    アートそのものをパラダイムシフトさせる事であり、
    私自身はそのダイナミズムに魅了され、
    「純粋芸術」を追い求めているわけです。

    美学者母

    テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

    1. 2019/09/21(土) 16:22:34|
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    四次元事業としての狭山美学校。(次元双対性思考の重要性)

    どもっ!!!
    美学者母です。
    夏も終わりに近づき、
    夜は少し過ごしやすくなってきましたね。

    という事で今回は、
    私美学者母と相方の哲学者大和が運営する、
    「狭山美学校」について少し、
    踏み込んだ事を述べていきたいと思います。

    狭山美学校は現在は民宿を、
    コア事業として位置付けて運営している?
    という体裁ではあるのですが、
    これは多くの人々に理解していただきたい、
    また一つの側面として、
    多くの人々に有益である面に、
    フォーカスして、
    その様な民宿という形態を、
    コア事業としてプレゼンテーションしています。

    しかし本来私たちはアーティストですので、
    当然といいますか、
    ただ単に民宿というものを、
    運営しているわけでは無いわけです。

    それはこの「狭山美学校」という、
    アーキテクチャ自体が、
    私たちの「作品」であるというのが、
    「民宿」以前にある、
    私たちの考えなのです。

    つまり私たちの意図というものを、
    正確に申しますと、
    私たちの作品である「狭山美学校」を、
    「体験」していただいている事が、
    ある側面において、
    「民宿」としての「機能」を有する。

    その様な捉え方が、
    私たちの「意図」としては、
    正しい「認識」であるわけです。

    この様な「様式」は、
    私がアーティストとして、
    20年以上活動してきた上での、
    ある種の「ジレンマ」から、
    導き出してきた「解」であるのです。

    それは「純粋芸術」と「社会」との乖離、
    というのものが進むこの世界で、
    いかにして、
    「純粋芸術」を成立させる事が出来るのか、
    また「独立性」を担保させ、
    いかにサスティナブルに存続し、
    社会との合意点を見つけ、
    この社会に「純粋芸術」を立脚させる、
    その様な試みなわけです。

    そしてその試みは現在大変上手くいっています。

    この試みは、
    現在に生きるアーティストや、
    これから芸術や美術を志す人々への、
    ヒントになると考えています。

    その様な事から、
    もう少し「狭山美学校」の構造というものを、
    詳しく解説していきたいと思います。

    まず私たちは、
    一般的な三次元的認識では無く、
    四次元的認識において作品を制作、
    つまり狭山美学校を提供しています。

    芸術の一つの原理として、
    「次元的変換」というものがあります。
    それは簡単に言えば、
    三次元の風景をキャンバスという平面に、
    つまり二次元に変換する。
    その様な事と同じ事を、
    私たちは「狭山美学校」で展開しています。

    しかし「狭山美学校」では、
    四次元から三次元への変換であり、
    さらに高次元での次元変換を試みています。

    ここで少し註釈すると、
    次元双対性というのは、
    高次元から低次元への双対性が可能です。
    それは科学的にもホログラフィック双対として、
    知られているわけです。

    つまり私たち狭山美学校は、
    次元双対性思考において四次元に居て、
    この三次元への双対性を行なっているわけです。

    それを簡単に説明しますと、
    四次元とは空間の広がりであるわけですが、
    それは刹那とも言い換える事ができます。
    そしてその四次元の三次元的表層として、
    「体験」というものとして双対してくるわけです。

    この様な思考を、
    私は「次元双対性思考」といっているわけですが、
    この様な思考は、
    現在あらゆる部分で多用され、
    その有用性が明らかである事が理解できます。

    例えば、

    現在を言えば、
    グーグル、アップル、アマゾン、フェイスブック。

    純粋芸術で言えば、
    インスタレーション、インタラクティブアート、

    テクノロジーで言えば、
    ARやVRも次元双対性思考のものと考える事ができます。

    これらに共通するものが、
    次元双対性思考であり、
    空間の広がりという四次元をベースに、
    四次元の三次元的表層としての「刹那」を、
    「体験」というもので「双対」するという、
    その様な構造をベースにしているものです。

    この様な次元的思考の違いが、
    全く認識を変えるということは非常に重要で、
    そのものを提供する側の次元が、
    そのものを享受する側の認識に影響する、
    というものをしっかりと認識しなければなりません。

    つまり私たち「狭山美学校」は、
    一般的に理解しやすい「民宿」という、
    「形態」として社会にアジャストしながらも、
    私たちの提供しているものは、
    私たちの「純粋芸術」としての「作品」であり、
    それは「四次元」としての「刹那」を、
    「三次元」としての「体験」として表出させ、
    その次元変換、
    またはその次元的双対性を造形原理として、
    この三次元において私たちの、
    造形作品として立脚させている。

    それが現在の「狭山美学校」であるということです。

    是非「狭山美学校」という、
    哲学者大和と美学者母の作品を、
    「体験」しに来て下さい!!!

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/10(火) 23:17:15|
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    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

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            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





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