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    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    一般的に意味の無い事を行う意味(今僕が行う事の意味が大きく認められたなら、僕は一度死んでしまったのと同じ事なのである。)」

    僕はこの2週間あまり、
    ずっと一般的には意味の無い作業を、
    事務所で黙々と作業していますwww
    しかし僕にとっては凄く意味のある事です。

    僕の芸術活動というのは基本的には、
    ほとんどの人達から、
    「何をやっているのか意味がわからない」、
    というのがほとんどであり、
    それ自身を僕自身も理解しているので、
    そもそも真剣に自分のやっている事を、
    説明しようとも思わない。

    なぜなら、
    普通多くの人たちは、
    「意味のある」という概念世界の内側で、
    「意味のある」事に「意味がある」と考えている、
    しかし僕は、
    普通多くの人たちが、
    「意味のある」という概念世界の外側で、
    「意味のない」事に「意味がある」と考えている。
    つまりこの様な絶対的な認知の違いは、
    初めから僕は理解しているので、
    多くの人にとって「意味がない」事を、
    「意味がある」と言っても、
    根本的に理解できない事を知っている。

    例えば、
    それは意味を超えた、
    「概念」というもので捉えてみても同じで、
    また僕はその「概念」というものに対しても、
    同じアプローチをしている。

    それはどういうことか、
    つまり構造は「意味」と同じで、
    人間の多くの人たちは、
    「概念の内側」に「世界」があり、
    その中で生きているのだが、
    僕は「概念の外側」も含めて「世界」である、
    その様な「認知」で生きているわけです。

    例えば「概念」の内側では、
    多くの人々は「意味はわからない」が、
    これが「アート」なんだと「理解」する事ができる。
    しかし僕が作る「アート」は、
    多くの人々の「概念」の外側に、
    「アートを定義」するので、
    「意味も理解もできないしアートにも観えない」、
    わけである。

    もっと明瞭に言えば、
    多くの人々にとっての「世界」では、
    僕の作品は「観えない」「存在しない」のである。
    それは「概念を認知」できない、
    つまり物理的にも視認できないのである。

    僕はこの様な事を、
    明瞭に理解しているので、
    今僕の作品が多くの人に認知され、
    「意味を持つ」事は、
    一つの私自身の「死」でもあるわけです。

    私はアートにおいて「理解されない」「意味のない」、
    という事を目的にしているわけでは無く、
    アートの本質とはそういうものであると、
    理解しているのである。

    アートとはそもそも「認知的盲目性」の問題を、
    大きく抱えているのであり、
    本来同時代に生きている、
    大多数の人々には「視認」できないものであるのだ。

    逆説的に「視認」できないとはどういう事か?
    それはゲシュタルトされないという事である。
    つまり多くの人々にとって、
    それは「概念的」「意味的」ゲシュタルトが、
    できないものであり、
    それはまさに大多数の人々の「世界」には、
    存在しないものなのである。

    そもそも人間にとって、
    「意味のない」事を続ける程、
    「苦痛」なものは無い、
    それは皆さんも実体験として理解できるだろう。
    それは僕も全く同じである。
    しかし僕が実践しているアート活動というのは、
    多くの人々にとって「意味がない」のであるが、
    私にとってはもっとも重要な、
    「命の営み」であり、
    「崇高な意味をもった」ものなのである。

    だからこそ、
    一見多くの人々から観ると「意味のない」事も、
    20年以上続けてきているのである。

    幸いにも、
    稀に個人的に私の活動の支持を伝えてくださる、
    方々もおり、
    それは特にある領域の専門家の方などであり、
    本当にありがたいと思っています。

    最後に、
    この「意味のある」と「意味のない」、
    「概念の外」と「概念の内」、
    このある種美的判断は、
    非常に明瞭に芸術を判断する事が可能です

    一般的に一流以外のほとんどの芸術は、
    「概念の内」であり「意味のある」ものであり、
    本当の一流の芸術は、
    「概念の外」であり「意味のない」ものなのです。

    つまり本当に一流の芸術というのは、
    大多数の人々は理解し体験できないのです。

    そこから大多数の人々が「古典」に向かう理由、
    それも理解できます。
    それは大多数の人々が、
    一流の芸術を理解し体験できるまでには、
    100年以上の時間軸が必要であるという事なのです。

    美学者母


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    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/12/11(水) 13:42:55|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    Dead Poets Society(死せる詩人の会、晴れやかなる死とは何か?)

    僕の様に思いをはせるという業をしていますと、
    やはり「生きる」とは何か?
    「死ぬ」とは何か?
    と毎日考えるわけですねwww
    特に「死ぬ」ということを考え始めたのは、
    本当に小さい頃で、
    自分自身の「死」を考えると、
    怖くてたまらなかったのを、
    今でも鮮明に記憶しています。

    特に「死に方」というものを考える様に、
    なったきっかけは、
    三島由紀夫の影響は大きく、
    三島由紀夫という人間の美しさ、
    それに魅了され、
    私は三島由紀夫が小説家としてではなく、
    むしろ「美学者」と考えているわけです。

    「美」というものを追求していくと、
    それは自明的に「死」を考えるわけです。
    その考えの中には、
    「生まれ方」は選べないが、
    「死に方」は選べる。
    それはただ単に「産まれる」という意味以上に、
    「生きる」という事も、
    「生まれ方」に含まれるわけです。

    つまり「生き方」というものも、
    究極的には「自由意志」など存在しない、
    その様な事を考えるわけです。
    では唯一人間にある「自由意志」とは、
    なんなのかと考えると、
    それこそ「死に方」なわけです。

    「美」というもを追求し、
    「死」というものを捉える時、
    ある種「晴れやかな死」というものに、
    出会うのだろうと最近実感するわけですね。

    小さい頃に「死」を考えた時、
    あれだけ恐怖を感じていたわけです、
    またこの様な歳になっても、
    「死」というものが大変怖いわけですが、
    しかしかすかに、
    「晴れやかな死」というものを実感するのです。

    それは例えば、
    三島由紀夫しかり、
    西部邁しかり、

    それは外形的な美しさではなく、
    「美しく晴れやかな体験」だと考えるわけです。

    私も実際に数年前までは、
    「晴れやかな死」などあるわけがない、
    と思い込んでいたわけですね。
    「死」とは「恐怖に慄く」ものであるってね。
    しかし、
    母が死に、姉が死に、父が死に、
    近しい身内が皆んな死んでいくのを経験し、
    特に姉の死の時に強く感じました。

    姉が死ぬ前夜に、
    もうあぶないので来てください、
    という事で病院へ行きました。
    その時に姉が、

    「ほんまに晴れやかやわ」

    って言ったんですね。
    翌日の朝姉は死んだわけですが、
    その言葉が本当に忘れられません。

    まぁこれを読んで、
    僕が自死を考えているのか?
    なんて感じる人もいるかもしれませんが、
    その様な勇気は私にはありませんwww

    しかしながら、
    「晴れやかなる死」
    というものを迎えたい、
    そう考えていることは間違いありません。

    それは逆説的に、
    「晴れやかなる死」を迎える為に、
    「生きるとは怖ろしいほど真剣な事である」
    という実践をしなければならない、
    そう考えているわけです。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/12/03(火) 17:09:23|
    2. 日常
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    芸術における古典と現代の指向性はなぜ産まれるのか?(上原ひろみのスタンダードとオリジナルから理解できる芸術の指向性)

    はいっどもっ!!!
    美学者母です。
    最近は文章を書くのがサボり気味で、
    狭山美学校のリノベーションをしたり、
    伊勢神宮に行ったり、
    上原ひろみのコンサートに行ったり、
    小学校の同窓会へ行ったり、
    まぁ遊びまくってたといえばそうなるわけですが、
    僕的にはフィールドワークをしていたわけですwww

    僕も実際コンピューターに向かっている時間、
    というのも長かったり、
    思考実験など考え込む時間も長くて、
    家に引きこもって色々研究しているわけですがwww
    僕はフィールドワーク、
    つまり実際に行動する事を、
    もっとも大事にしています。

    行動によって思考ができることもあるし、
    思考によって行動ができることもある。
    内と外という対極ではあるのですが、
    やはりこの対極性というものが、
    とても重要だと考えているわけですね。

    で、今回も、
    かなり昔からの私自身の中で問題であったものが、
    色々と解決されたので、
    そのことを言説していきたいと思います。

    まず私の芸術、
    特に美術においての指向性は、
    現代とか最先端というものを指向しているわけです。
    それは私自身では自明なことなのですが、
    芸術とはそもそも現代であり最先端である、
    それはどの時代でもそうだと考えているし、
    むしろ考える前に芸術の定義として自明なのです。

    しかし世の中には、
    芸術の指向性として古典を指向している人も、
    多くいます、
    というか日本だと、
    芸術とは古典であるという自明性の方が、
    圧倒的に多数である事も理解しています。

    私も古典の美術が理解できないわけではないし、
    むしろ一般の方よりも知識はあるし、
    その時代背景も知っている。
    そして古典もその時代においては、
    現代であり最先端であったわけです。

    しかしそのような古典美術を、
    現代において芸術の自明性として指向する、
    それが私には理解できなかったわけです。

    それが、
    先日行った上原ひろみのコンサートと、
    理論物理学者の佐治晴夫の言葉で、
    かなり明確に理解することができたので、
    その辺をさらに詳しく言説していきます。

    まず上原ひろみの事でお話しすると、
    私が上原ひろみの演奏で芸術体験をするのは、
    上原ひろみのオリジナルの曲です。
    例えばplace to beとかHazeで、
    今回コンサートに行きましたが、
    前半がオリジナルで後半がスタンダード。
    やはり前半のオリジナルの曲で、
    芸術体験が私を襲ってくるわけですね。

    しかし後半のスタンダードを聞いていると、
    なんというか心にグッとくるものがあります。
    それはやはり世界のあらゆる場所、
    様々な状況で演奏し、
    観客と刹那的な真剣勝負をしてきた、
    その即興性を備えたテクニック。
    誰もがみとめざるをえない。
    しかし圧倒的な孤独を垣間見ます。

    それに比べ前半のオリジナルを聞いていると、
    後半の観客との真剣勝負という、
    観客との勝負ではなく、
    上原ひろみとピアノとのまぐわいを、
    目の前で観ているような、
    本当に美しい体験をするのです。

    この様な一人の人間の中での、
    二つの対極性は、
    先にも述べた、
    芸術の指向性の問題とも、
    問題を共有しています。

    その問題の理解を進めるのに、
    理論物理学者の佐治晴夫の言葉は、
    重要なキーポイントになります。
    佐治晴夫はもともとも音楽家を目指していましたが、
    音楽の知識や技術が無く、
    音楽に感覚的に近しいものとして数学を志します。
    この「音楽に感覚的に近いものとしての数学」、
    というのは非常に重要で、
    佐治晴夫はバッハは数学的に美しいと言われています。
    また私自身の知識としても、
    古典音楽の作曲に数学が使われていた事も知っています。

    佐治晴夫はその後数学から理論物理学へと進まれますが、
    この様な言葉から何が理解できるのかというと、
    それは数学がそもそも、
    「この世界の森羅万象を数学概念で説明しよう」、
    という試みであるという事です。
    逆説的に言えば、
    「この世界の森羅万象が数学であるならば、
    数学こそが普遍的言語であり、
    数学的美しさこそが、
    美の原理である。」
    つまり古典を指向する多くの人々というのは、
    ある種この様な、
    「数学的美しさこそが芸術なのだ」という、
    その様な原理に基づいていることが理解できるのです。

    これは音楽に限らず美術でも、
    例えば黄金比や白銀比などは数学的である。

    そしてこの様な事から決定的なことが理解できる。
    つまり芸術において古典を指向する人々は、
    人間において思考可能な、
    「概念世界」において「美を追求」する。
    という事なのである。

    しかし私、美学者母は、
    現代とか最先端を指向している人間において、
    「美を追求」するという行為は、
    「概念世界の外側」を「指し示す」という、
    行為に他ならないのである。

    この「概念世界の外側」を「指し示す」という、
    行為については今までの私の言説でも、
    度々解説してきたのでここでは解説しないが、
    もし知りたい方は私の過去の言説を参照してください。

    そして最後にまとめ。

    ここまで言説してきたことで理解できるのは、
    芸術において古典を指向するというのは、
    「概念世界の内側に美を追求する」
    芸術において現代、最先端を指向するというのは、
    「概念世界の外側に美を追求する」
    ということで、
    上原ひろみの演奏でいえば、
    「オリジナル」は「概念世界の外側」
    「スタンダード」は「概念世界の内側」
    という事になる。

    私が考える「美」というのは、
    「概念世界が外側へ広がる」ということ、
    または「外側と内側の二重の転倒」、
    そこに「美の体験」があると考えている。
    すなわちこのコンテクストで言えば、
    「本質的な美は概念の外側にある」のであって、
    「概念の内側にない」のである。

    すなわちその様な事から、
    私は現代において、
    「芸術や美を追求する上で古典を現在において指向しない」

    という事である。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/12/02(月) 14:04:34|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    死をできるだけ遠ざけたものが日常である(一般人と芸術家どちらが現実を生きているのか?

    どもっ美学者母です!!!
    僕もこうして日々生きているわけですがwww
    僕の生の営みが一般的であるかというと、
    僕自身も自分で一般的だとは思わないわけです。
    しかし普段あまり一般人とコミュニケーションしないと、
    自分の生の営みが普通だと思ってしまうわけです、
    そんな時に、
    一般人の方々とコミュニケーションすると、
    まぁ色々と驚きや新しい発見があります。
    時に自分の生き方というものを客観的に観る、
    そういった事もとても大切なものだと考えています。

    そこで今回は改めて、
    一般人と美学者母の生の営みというものを、
    俯瞰して考えてみようと思うのです。

    例えば「日常」という言葉をキーワードに、
    考えてみても、
    一般人と美学者母との生の営みの違いというものが、
    はっきりと分かれてくることが理解できます。

    では「日常」とはなんでしょうか?
    私美学者母にとって「日常」は存在するのでしょうか?
    まず「日常」という定義や意味から、
    その様なことを考えていきたいと思います。
    私が考える「日常」とは、
    「死をできるだけ遠ざけたもの」が、
    「日常」であると考えています。
    それはどういうことかと言うと、
    例えば「1分後は絶対にくる」、
    「10分後は絶対に訪れる」、
    「1時間後は確実に存在する」
    「明日は必ずやってくる」、
    「1年後はきっと生きている」、
    「10年後は年をとっている」、
    この様な時間軸がサスティナブルに連続する、
    その様な前提で、
    「生を営む」ことが「日常」なのだと考えているわけです。

    では美学者母に「日常」は存在するのかというと、
    それは存在しないわけです。
    私は常に「死」を体感し、
    「死」を意識し、
    「死」を考えています。
    さらに言えば常に「死」を恐れています。

    例えばそれを逆説的で簡単にいうと、
    「刹那に生きる」という事になります。
    それを具体的にいうと、
    「死」を体感する、
    または「死」を常に意識するということは、
    この刹那の「生」を大切に生きるという事です。
    「生」というものが「連続」して、
    続いていくのだという前提には立たず、
    常に「死を前提に生きる」という事です。

    この様な単純な「生の営み」に対する、
    「前提条件」の違いというものが、
    人間の質に絶対的な違いを生じさせます。

    それが冒頭にも述べた、
    一般人とのコミュニケーションで、
    現れてくるし、
    驚きや新しい発見があるわけです。
    私が「日常」というものを感じる時、
    それが一般人とコミュニケーションした時に、
    感じる感覚であるわけです。

    それがある種「コミュニケーションの不協和」を起こし、
    私にとっては非常に不快であり、
    また非常にストレスになるわけですが、
    私も社会の中に存在しているわけなので、
    その様なネガティブなものとも、
    真摯に向き合って、
    しっかりと受け止めていかなければならない、
    そう考えているわけです。

    僕の様な「生き方」をしていると、
    僕の「生き方が変わっている」とか、
    「地に足ついていない」とか、
    「現実を生きていない」とか多々言われるわけですwww
    しかしそれは本当でしょうか?
    本当の意味で「現実」を生きていないのは、
    どちらなのでしょうか?

    「現実」は人間皆んないつ死ぬかなんてわからない、
    「現実」として1分後に死んでいる事だってある、
    むしろ僕から言わせれば、
    1年後に生きていることが自明であるかの様に、
    1年後の事を話している人の方が、
    とても現実を生きているとは思えないのです。

    つまりこの様な現象から何が理解できるか、
    というと、
    一般的に「現実を生きている」と言われている人は、
    本質的に「現実を生きていない」わけで、
    逆に一般的に「現実を生きていない」と言われている人は、
    本質的に「現実を生きている」わけです。

    この様に一般性と本質性が二律背反するというのが、
    「世界の真理」なわけなのですが、
    この様に改めて俯瞰してみると面白いものです。

    また私は思ったことや考えたことは、
    「すぐに言います」
    「すぐに行動します」
    正しいものは正しい、
    嫌いなものは嫌い、
    間違っているものは間違っている。

    今言わずしていつ言うのか?
    今やらずしていつやるのか?

    その様な私の考え方の前提も、
    前述した様な前提条件からくるものです。

    非常に単純な前提条件の設定の違いで、
    大きな人生の違いを生み出します。

    その点は「日常」を生きる方々も、
    一度俯瞰して考えてみると、
    自分自身の「生き方」が、
    違って見えてくるのではないでしょうか。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/11/19(火) 14:01:52|
    2. 日常
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    アートに真摯に向き合っているアーティストとクソなアーティストの見分け方(革新しないアーティストはそもそもアーティストでは無い)

    続きを読む

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/11/14(木) 18:54:50|
    2. アート
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    mama Artist Promotion Video
    http://www.youtube.com/watch?v=mR12s6MhMS8



    美術家 「mama」 Official WebSite
    http://www.mamalab.info





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    http://facebook.com/machromatic






    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    SELECT ART SHOP マクロマティック
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    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





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