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    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    アートに真摯に向き合っているアーティストとクソなアーティストの見分け方(革新しないアーティストはそもそもアーティストでは無い)

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    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/11/14(木) 18:54:50|
    2. アート
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    芸術という概念の共有は可能か?(あいちトリエンナーレ2019からみる芸術という概念の多様化)

    そもそも芸術のみならず、
    現在の社会や世界全般に、
    あらゆる言語の概念の共有というものが、
    非常に難しい時代になってきている。

    それはある種の「大きな物語」の終焉とも、
    同期する問題ではあるのだが、
    サイエンスやテクノロジーの進歩と共に、
    多くの人々が「情報」と接する媒体、
    つまり「メディア」の多様性が加速し、
    松井みどりが提唱した、
    「マイクロポップ」な時代に突入している。

    ひと昔前では、
    テレビで流された情報は、
    翌日には、
    職場や学校、
    井戸端会議で共通の話題として、
    その情報は「共有」されていたわけであるが、
    現在ではスマートフォンなどを通して、
    数限りないメディアが存在し、
    それぞれ個人が、
    情報を取捨選択し、
    あらゆる人々が共通の「情報」を、
    「共有」しない状況が訪れている。

    こういったある種の「共有の崩壊」は、
    「情報」というマクロなものだけでなく、
    「言語」というある種ミクロであり、
    「共有」というものがアプリオリな領域まで、
    その「共有の崩壊」が起こってきていると、
    私は日々強く感じるのです。

    それは例えば芸術の分野で考えてみると、
    今年非常に物議を呼んだ、
    「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の不自由展」などでも理解できます。

    それは「芸術」という「言語」そのものの「概念」が、
    「大きな物語」的な、
    一つの大きな概念として、
    表現者側にも鑑賞者側にも、
    全く収束していない事、
    それが大きく浮き彫りになったと実感しています。

    それは同時に、
    「芸術」というものの社会的合意が、
    「これは芸術だから」という理由で、
    「共有」できなくなったとも言えます。

    それはさらに、
    「芸術」には「表現の自由」が与えられる、
    というある種の自明性までもが、
    もう通用しない時代なのだと考えています。

    なぜなら、
    「芸術」という「言語」としての「概念」が、
    表現者側でもそれぞれ多様化し、
    鑑賞者側でもそれぞれ多様化すれば、
    そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
    というものがそもそも「定義不可能」であるからであり、
    そもそも「芸術」というものが、
    「社会」で「共有」し得ないものになっているからです。

    この様な事も含めて、
    「あいちトリエンナーレ2019」などを考察すると、
    そもそも「あいちトリエンナーレ2019」は、
    税金が使われている地域芸術祭です。
    つまり税金が使われるという事は、
    「社会的共有」を意味します。
    しかし先述した様に、
    そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
    それが「社会」で「共有」できないわけですから、
    「税金」を使うべきではないのです。

    これはパブリックアート全般に言える問題とも言えます。

    この様な現状を、
    現在活動している芸術家は早く気づくべきで、
    その事を争っている事自体馬鹿馬鹿しく思うのです。

    私は「言語」というものを「アート」として、
    「造形芸術、「美術」として活動しています、
    それは約10年前に宣言した「ウェブアート宣言」、
    その概念にも含まれていますが、
    「言語」というものが、
    ある種「多様性」「多角性」「多次元性」を持ち、
    言語自体が二次元的次元から三次元的に立ち上がり、
    言語自体が「空間に浮かぶホログラフィック」の様に、
    「造形性」を持っている。
    その様な私の「理論」が実証されてきています。

    「言語」における「概念」というものは、
    一般的にアプリオリに基底されており、
    その「概念」は固定的であり、
    誰もが「共有」しているという事が、
    もはや現在では「崩壊」し、
    「言語」における「概念」が、
    それぞれがそれぞれに解釈し、
    「共有」し得ないものとして現れてきているのです。

    ではその様な現在において、
    どう「芸術は可能なのか?」という事を、
    考えていかなければならないわけです。
    そこで私美学者母と哲学者大和は、
    「狭山美学校」という、
    ある種「プラットフォーム」であり、
    「アートインターフェイス」であり、
    「メディア」であるものを創造しました。

    「狭山美学校」という「屋号」であるのに、
    「民宿」というものを運営している事からも、
    理解できると思うのですが、
    そもそも「学校」という「概念」が崩壊しています。
    さらに言えば私は「美学者母」と名乗っていますが、
    そもそも私は「学者」ではないので、
    「学者」という「概念」が崩壊しています。

    つまりこれこそが、
    私が10年前に宣言した「ウェブアート宣言」に、
    繋がってくるわけで、
    そして皆さんの脳内に存在する、
    「狭山美学校」なり「美学者母」が、
    「ホログラフィック」のごとく、
    立ち上がり造形性を有するのです。

    この様な事から、
    現在において「芸術は可能なのか?」
    という答えは非常にシンプルに可能である、
    と言えるわけです。

    そして「芸術」において、
    非常に重要な「共有」、
    つまり「社会的合意点」というものを、
    どう作り出すのかというものが、
    現在においての「芸術の成立」に、
    もっとも重要であると考えています。

    これからの「芸術」というものは、
    「芸術」を体験する側が、
    「芸術」と気づかずに「芸術」を体験している、
    その様なものが「芸術」になってくるのです。

    それは深遠なレトリックを使い、
    人々の無意識に介入し、
    「芸術体験」を提供する。

    現在の「芸術家」というものは、
    非常に知的な操作をするものであり、
    知性というものを求められる、
    その様な時代になっているのです。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/10/23(水) 20:21:20|
    2. アート
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    あいちトリエンナーレ2019でアーティストたちが言う表現の自由ってもうなんなのか解らなくなってるのはなぜだろうwww(いつまでアーティストは夢想を語るのか?)

    少なくとも一人のアーティスト、
    アート活動をしている人間として言うと、
    「表現の自由」なんて考えもしないし、
    はっきり言ってどうでもいいwww

    それはなぜか、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    僕は、

    「自分が表現したいものは絶対に創る」

    のであって、
    「表現の自由」なんてどうでもいい。

    例えば日本でキリスト教が禁止されてた時に、
    「隠れキリシタン」がいたわけで、
    すなわち表現とはそういう類のものであるわけです。

    それはどういう事かというと、
    つまり主体をどこに持つのかという事、
    例えば「隠れキリシタン」は、
    「己の信仰」を守ってそれを「表現」していた。
    それは「信仰の主体」が「個人」にあり、
    「個人」としての「信仰」、
    「個人の表現の自由」を守ったわけだ。

    しかし今問題になっている、
    「あいちトリエンナーレ2019」で問題になっている、
    「表現の自由」って全然違うよね、
    もはや「表現の自由」というスローガンの為の運動で、
    そこには「個人」としての「表現の自由」は関係ない。

    体制と反体制という構図を演出して、
    「表現の自由」というスローガンを利用し、
    ただ「体制批判」したいという、
    もう「芸術」とは程遠いものであるわけです。

    正に日本の「戦後体制」「戦後教育」の、
    行き着いた場所というべき「あいちトリエンナーレ2019」。

    僕の言葉で言えば、
    現在もアーティストと呼ばれる人々は、
    1970年代前後のベトナム反戦運動などの時代、
    つまりウッドストックに代表されるロックや、
    ヒッピーのムーブメントを、
    いまだに展開しているというかなり、
    時代が遅れている人達なんだねwww
    それを「ロックの時代」の人々と言ってるわけ。

    そしてそのロック自体の様式も、
    観客とステージは分離され、
    ステージは観客よりも高く、
    バンドセットという演奏を必要とする、
    つまりある種の演奏というものを学ぶという事は、
    エスタブリッシュメントを意味し、
    その様式は正に「体制」と「反体制」という、
    構造を作り出しているわけなのです。

    それに反し、
    現在の若者たちというのは、
    「ヒップホップの時代」の人々なわけです。

    そして僕は1978年生まれですが、
    日本のヒップホップ黎明期から、
    ヒップホップカルチャーに属し、
    実際にグラフィティライターをしていました。

    この「ヒップホップの時代」の人々は、
    「ロックの時代」の人々とどう違うのか、
    それは「ロック」というのは「夢想」を歌うわけですが、
    「ヒップホップ」は「リアル」をラップするわけです。

    それは哲学思想的に言えば、
    「プラグマティズム」的であると言えます。

    現在の世界を考えてもそうですが、
    日本の若者達ももれなく「実利」を、
    「意味ある事」として生きているわけです。
    「ロック」の様に「夢想」を歌っていても、
    「世界は変わらない」事を知っているのです。

    またヒップホップ時代の様式も、
    ロックとは違い、
    まず演奏を必要としません。
    更にラッパーと観客との間には、
    ステージという段差は無く、
    誰もがラッパーとして、
    ラップし始めることができる。
    その様な様式は、
    ロックの様に「体制」と「反体制」という、
    「分離」では無く、
    それぞれの個人が「主体」として、
    時には「観客」になり、
    時には「ラッパー」になる。
    すなわちそれぞれ「個人」が、
    その現場の「当事者」であるわけです。

    この様な事は決して「アートの世界」でも、
    例外ではありません。

    例えばバンクシーを考えてみてください。
    バンクシーは「アートの世界」でも、
    非常に重要なアーティストですが、
    彼はヒップホップカルチャーの、
    グラフィティライターなのです。

    彼はイギリスはもとより、
    世界中の壁に落書きをしています。
    それは正に「犯罪」であるわけです。
    しかしバンクシーのその落書きは、
    貴重に保存されたり、
    その壁ごとオークションで売られたり、
    その壁が観光名所になったりしています。

    ではバンクシーにとって、
    「表現の自由」とはなんでしょうか?
    それは、
    バンクシーにとって「表現の自由」なんて、
    どうでもいい事です。

    「表現の自由」そのものが、
    国家の理念であり意志なわけです。
    そもそも「国家自体が夢想」であり、
    その「夢想である国家」が持つ、
    「理念や意志」もまた「夢想」なのです。

    それよりも、
    現実的に自分自身が、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    どう世界に、
    どう社会に、
    影響を与えるのか、
    どの様な「機能」を有するのか、
    それが「ヒップホップの時代」では重要であり、
    「リアル」に「アクション」する事こそが、
    「善」であるのです。

    「もはや時代遅れである」

    悲しい事に、
    アーティストというのは、
    世の中で誰よりも早く、
    時代というものを読まなければならない、
    そいう存在であるわけですが、
    現在の日本のアーティストというのは、
    よりいっそう「時代遅れ」である、
    その様な現状です。

    先日文化庁が補助金を停止する、
    その様な事でまた、
    「表現の自由」の侵害だとか、
    まじ日本のアーティストたち、
    真面目に頭を使って本質を考えようwww

    まさに現在の「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の自由」というものが、
    「プラグマティズム」的な目的の転移を起こしている。

    「表現の自由」の為の「表現の自由」、
    目眩がするほど時代遅れ。

    「表現の自由」なんか糞どうでもいい、
    バンクシーでも例え話をしたのだが、
    「表現の自由」という言葉や意味、
    概念に囚われている事こそ、
    「本末転倒」である事になぜ気づかないのか?

    これを読んで頂いた方々には、
    ぜひ「表現の自由」という言葉や意味、
    概念の外側へ世界を広げてほしい。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/27(金) 19:10:12|
    2. アート
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    四次元事業としての狭山美学校。(次元双対性思考の重要性)

    どもっ!!!
    美学者母です。
    夏も終わりに近づき、
    夜は少し過ごしやすくなってきましたね。

    という事で今回は、
    私美学者母と相方の哲学者大和が運営する、
    「狭山美学校」について少し、
    踏み込んだ事を述べていきたいと思います。

    狭山美学校は現在は民宿を、
    コア事業として位置付けて運営している?
    という体裁ではあるのですが、
    これは多くの人々に理解していただきたい、
    また一つの側面として、
    多くの人々に有益である面に、
    フォーカスして、
    その様な民宿という形態を、
    コア事業としてプレゼンテーションしています。

    しかし本来私たちはアーティストですので、
    当然といいますか、
    ただ単に民宿というものを、
    運営しているわけでは無いわけです。

    それはこの「狭山美学校」という、
    アーキテクチャ自体が、
    私たちの「作品」であるというのが、
    「民宿」以前にある、
    私たちの考えなのです。

    つまり私たちの意図というものを、
    正確に申しますと、
    私たちの作品である「狭山美学校」を、
    「体験」していただいている事が、
    ある側面において、
    「民宿」としての「機能」を有する。

    その様な捉え方が、
    私たちの「意図」としては、
    正しい「認識」であるわけです。

    この様な「様式」は、
    私がアーティストとして、
    20年以上活動してきた上での、
    ある種の「ジレンマ」から、
    導き出してきた「解」であるのです。

    それは「純粋芸術」と「社会」との乖離、
    というのものが進むこの世界で、
    いかにして、
    「純粋芸術」を成立させる事が出来るのか、
    また「独立性」を担保させ、
    いかにサスティナブルに存続し、
    社会との合意点を見つけ、
    この社会に「純粋芸術」を立脚させる、
    その様な試みなわけです。

    そしてその試みは現在大変上手くいっています。

    この試みは、
    現在に生きるアーティストや、
    これから芸術や美術を志す人々への、
    ヒントになると考えています。

    その様な事から、
    もう少し「狭山美学校」の構造というものを、
    詳しく解説していきたいと思います。

    まず私たちは、
    一般的な三次元的認識では無く、
    四次元的認識において作品を制作、
    つまり狭山美学校を提供しています。

    芸術の一つの原理として、
    「次元的変換」というものがあります。
    それは簡単に言えば、
    三次元の風景をキャンバスという平面に、
    つまり二次元に変換する。
    その様な事と同じ事を、
    私たちは「狭山美学校」で展開しています。

    しかし「狭山美学校」では、
    四次元から三次元への変換であり、
    さらに高次元での次元変換を試みています。

    ここで少し註釈すると、
    次元双対性というのは、
    高次元から低次元への双対性が可能です。
    それは科学的にもホログラフィック双対として、
    知られているわけです。

    つまり私たち狭山美学校は、
    次元双対性思考において四次元に居て、
    この三次元への双対性を行なっているわけです。

    それを簡単に説明しますと、
    四次元とは空間の広がりであるわけですが、
    それは刹那とも言い換える事ができます。
    そしてその四次元の三次元的表層として、
    「体験」というものとして双対してくるわけです。

    この様な思考を、
    私は「次元双対性思考」といっているわけですが、
    この様な思考は、
    現在あらゆる部分で多用され、
    その有用性が明らかである事が理解できます。

    例えば、

    現在を言えば、
    グーグル、アップル、アマゾン、フェイスブック。

    純粋芸術で言えば、
    インスタレーション、インタラクティブアート、

    テクノロジーで言えば、
    ARやVRも次元双対性思考のものと考える事ができます。

    これらに共通するものが、
    次元双対性思考であり、
    空間の広がりという四次元をベースに、
    四次元の三次元的表層としての「刹那」を、
    「体験」というもので「双対」するという、
    その様な構造をベースにしているものです。

    この様な次元的思考の違いが、
    全く認識を変えるということは非常に重要で、
    そのものを提供する側の次元が、
    そのものを享受する側の認識に影響する、
    というものをしっかりと認識しなければなりません。

    つまり私たち「狭山美学校」は、
    一般的に理解しやすい「民宿」という、
    「形態」として社会にアジャストしながらも、
    私たちの提供しているものは、
    私たちの「純粋芸術」としての「作品」であり、
    それは「四次元」としての「刹那」を、
    「三次元」としての「体験」として表出させ、
    その次元変換、
    またはその次元的双対性を造形原理として、
    この三次元において私たちの、
    造形作品として立脚させている。

    それが現在の「狭山美学校」であるということです。

    是非「狭山美学校」という、
    哲学者大和と美学者母の作品を、
    「体験」しに来て下さい!!!

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/10(火) 23:17:15|
    2. アート
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    あいちトリエンナーレ2019の失敗にみる、情の時代の終焉。(津田大介、東浩紀の友情が日本的な感情を最も神秘とする悪習の最たる例である)

    まず以前に私が書いた、
    あいちトリエンナーレ2019の記事を、
    ご一読ください。

    「いつもアートは感じるものだって言ってる人の、
    あいちトリエンナーレ2019での矛盾」
    https://www.machromatic.net/column_0340.html

    続いて、
    「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプトを、
    ご一読ください。
    https://aichitriennale.jp/about/concept.html

    とここで理解が早い方なら、
    お気づきになるかと思いますが、
    私が書いている文章は、
    あいちトリエンナーレ2019のコンセプトとは、
    真逆の事を言っているわけです。

    まずこの様な私の考え方、
    それを前提条件に、
    色々と話を進めていきたいわけです。

    今回の「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプト、
    それはまさに「情」なわけです。

    その上で、
    まず先に私が表明しておきたいのは、
    私は、「情」というものを「信じていません」。

    「情」というものは、
    「人間」の「合理的判断」を狂わせます。
    つまり「人間の世界」において、
    「信用」できないものである、
    そう考えているわけです。

    しかし「信用」できないからといって、
    それがいらないものだと言っているわけでは、
    ありません。

    なぜなら、
    私たち人間そのものが、
    「情」によって生きていると、
    「実感」する生き物だからです。

    さらに「情」は、
    「人間」のみならず、
    「動物」全般の「生きる実感」の原理、
    であるはずです。

    むしろその様な、
    「動物全般」に備わる「情」から、
    「人間らしさ」を獲得しているものは、
    私は「理性」だと考えているわけです。

    つまり私は、
    情を超えた理性にこそ、
    「人間」としての「機能」があると、
    考えているわけです。

    その様な考察を踏まえて、
    あいちトリエンナーレ2019での、
    コンセプトである「情」。
    それに重ねて、
    津田大介と東浩紀との「友情」。
    日本のアートへの神秘性の、
    在りどころである「感情」。

    それらすべてが、
    日本の「情」を神秘化する、
    表層に観えたわけです。

    私はこの様な、
    日本の「情」に神秘性をみる価値観が、
    昔から嫌いですし、
    あまりにも前時代的すぎると考えています。

    なぜならば、
    ある意味一昔前のインターネットがない、
    その様な時代では、
    ある種、
    「情」という「機能」が、
    非常に「合理的」であったのは、
    間違いないのです。

    しかし現在の様に、
    インターネットが発展すると、
    「情」というものが、
    「非合理的」になっているのです。

    具体例を挙げればキリがないのですが、
    例えばよく言われる、
    「村社会」というのも、
    「情」のよるものでしょう。

    私などは大阪の片田舎の岸和田、
    そんな典型的な田舎の村社会に生まれ、
    あらゆるものが、
    地元の人の繋がりで成り立っているわけです。

    ビジネスでも文化でも、
    娯楽でも、
    なんでも身内を優先させ、
    利権を守り、
    自分たちの食い扶持を確保します。

    それはその時代においては、
    「非常に合理的」であったわけです。

    しかし私の様に、
    「村社会」が嫌いな人間でも、
    「嫌なものは嫌」
    「悪いものは悪い」
    と正直に発言しても、
    生きていけるわけですし、
    むしろ現在では、
    「村社会」の呪縛から抜け出し、
    自分の自由に生きた方が、
    「合理的」なのです。

    「情」というのは、
    ある種「束縛」を生み、
    「合理的判断」を奪います。

    人間は出来るだけ、
    「情」というものから、
    距離をとって生きた方が、
    「合理的」なのです。

    ここであいちトリエンナーレ2019の、
    話に戻りますが、
    今回のコンセプトの、
    「情の時代」というのは、
    現代において非常に遅れたコンセプトである、
    と同時に前時代的であり、
    左翼的な津田大介という芸術監督を考えれば、
    まぁ納得のコンセプトではある。

    そしてあいちトリエンナーレ2019の、
    アドバイザー東浩紀、
    津田大介の友人で、
    友達人選であり、
    まさに「友情」という、
    非常にコンセプトに合致した人選であった。
    しかしこれこそが「村社会」であり、
    典型的な前時代的人選である。

    さらに、

    アート=感情

    というまさに日本の前時代的な、
    アートの解釈により、
    この地域芸術祭、
    「あいちトリエンナーレ2019」は、

    見事に崩壊した。

    ではアートとは感情ではなければ、
    理性なのか、
    知性なのか、

    それは私が尊敬するヴィトゲンシュタイン、
    そのニュアンスを借りれば、

    考え得ることを全て考え尽くし、
    それでもなお考え得ぬものが神秘である、
    であるならば、
    その領域こそがアートの神秘である。

    最後に、

    津田大介はあいちトリエンナーレ2019の、
    コンセプトでこの様に記述している。

    「われわれは、
    情によって情を飼いならす(tameする)
    技(ars)を身につけなければならない。」

    私がいうならこうだ、
    「われわれは、
    (知によって情を飼いならし)その上で、
    神秘を体験せねばならない。」

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/19(月) 18:21:18|
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    Author:FC2USER590191GYW
    mama Artist Promotion Video
    http://www.youtube.com/watch?v=mR12s6MhMS8



    美術家 「mama」 Official WebSite
    http://www.mamalab.info





    facebook
    http://facebook.com/machromatic






    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















    マクロマティック
    http://www.machromatic.net

    SELECT ART SHOP マクロマティック
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    〒596-0021
    大阪府岸和田市松風町25-18
    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会
    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

    PC用  http://www.machromatic.net

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