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    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    緊急事態宣言!!!物理的移動が高コスト高リスクの時代の最先端アートとは。(中央集権型から分散型へあらゆるものがパラダイムシフトする)

    2020年4月7日に、
    新型コロナウイルスへの対策として、
    緊急事態宣言が発令された。
    2010年5月9日。
    私は「ウェブアート宣言」を宣言した。
    https://www.installation.jp/
    さてこの様に私美学者母は、
    ちょうど10年前に「ウェブアート宣言」を宣言した。
    そしてそれから10年後、
    新型コロナウィルスへの対策として、
    緊急事態宣言が発令された。
    僕は10年前の「ウェブアート宣言」を宣言した時に、
    何を考え、
    そして何が観えていたのだろうか。
    その様な一端が少し今回の、
    緊急事態宣言で皆さんにも「見える化」された、
    その様に考えているのです。
    世界の真理とは、
    私がどうしようが、
    皆さんがどうしようが、
    道理に従っていくだけなのです。
    私にはその「真理」が観えているからこそ、
    10年前に「ウェブアート宣言」を宣言しました。
    その後も「真理」の「道理」に従い、
    「スマートアート宣言」、
    「量子論美術宣言」、
    「デリバティブアート宣言」、
    など色々な宣言を行ってきました。
    それらの宣言の「原理」になるのが、
    10年前に宣言した、
    「ウェブアート宣言」です。
    では「ウェブアート宣言」の本質とは、
    一体どういうものなのか、
    それを今回、
    少し踏み込んだ形で言説したいと思います。
    私たちの世界というものは、
    とても不思議なもので、
    その時代その時代に、
    「貴重なもの」や「重要なもの」、
    それが移り変わっていくわけです。
    それはある種の「美徳」とも言えますが、
    あの時代に「美徳」とされていたものが、
    今では「害悪」とされている事など、
    無数に存在しています。
    またこの様な「代謝」も、
    「世界の真理」であり、
    ホメオスタシスを保つためには、
    アポトーシスが必要なのです。
    例えばそれはアートの表出形態でも、
    時代によって移り変わっています。
    それはアートだけに限らず、
    様々な社会的表出でも、
    移り変わっているわけです。
    例えば今回問題にしている「移動」でも、
    昔は東京-大阪を歩いて移動していたわけです。
    しかし現在は「飛行機」や「新幹線」で移動します。
    この様に私たちの「世界」というもの、
    それは「人間」というものも含めて、
    ある種「合理的」な世界へ引き寄せられる。
    「合理的」とは「恒常性」とも言えますが、
    すなわちホメオスタシスを保つためには、
    アポトーシスが必要なのです。
    では今回の新型コロナウイルスへの対策として、
    緊急事態宣言が発令された。
    この「コロナショック」によって、
    「見える化」され、
    表面化した問題とは一体何かというと、
    それはまさに「物理的移動の非合理性」なのです。
    そして私が10年前にアート作品として、
    「ウェブアート宣言」を宣言した、
    その大きな原理もまた、
    「物理的移動の非合理性」なのです。
    私は18歳からアート活動をしていますが、
    最初の10年位は絵や立体作品、
    インスタレーションなど、
    実際に全国色々なところを回りながら、
    アート活動をしていました。
    しかし10年くらい活動したある時に、
    その圧倒的に非合理的で、
    コストパフォーマンスの低い活動に、
    ある種恐怖を覚えたわけです。
    私は18歳からインターネットを使い、
    1998年くらいですから、
    本当にインターネットの黎明期から、
    インターネットを使っています。
    そしてちょうどその頃位には、
    高速インターネットも普及し、
    本格的なインターネット時代。
    その様な状況が重なって、
    インターネットでアート活動をする。
    それがまさに私には、
    非常に合理的であり、
    コストパフォーマンスも非常に高い。
    またこの様なアート活動が、
    当たり前の時代が来るであろうことも、
    容易に理解できたわけです。
    その上で私は、
    2010年に「ウェブアート宣言」を宣言し、
    ウェブインスタレーションという新しい、
    美術概念を発明しました。
    そして2020年4月、
    新型コロナウイルスへの対策として、
    緊急事態宣言が発令されたわけです。
    私も沢山のアート業界の方々と、
    ネットで繋がっていますが。
    美術館やギャラリーでの展覧会、
    様々なアートイベント、
    それらはもはや開催する事が出来ません。
    しかし私のアート活動は、
    全くの影響なく、
    この様にアート活動を通常通りしています。
    もはや、
    従来のアートの表出形態が、
    合理性を失っているのです。
    そして私は10年前には、
    もうそのことに気づき、
    アート活動、
    そして作品をインターネットへ、
    いち早く変化させたわけです。
    これらの現象をもっと論理的に、
    また合理的な説明をするとすれば、
    最先端の世界というのは、
    「分散型世界」「分散型社会」へ、
    移行しているという現実です。
    例えばアートで言えば、
    美術館やギャラリーでの展覧会、
    アートイベントなどは、
    「一つの場所」に「多数が集合」する。
    これはまさに「中央集権型」であり。
    私が実践しているウェブアートや、
    ウェブインスタレーションは、
    それぞれのデバイスのディスプレイが、
    私の作品であり、
    これはまさに「分散型」なのです。
    これらの「分散型」の考え方は、
    まさにビットコインなどの、
    ブロックチェーン技術などが有名ですが。
    これらの「分散型」という考え方自体が、
    あらゆる分野で合理的な考え方として、
    広がってくると考えています。
    それは近代において象徴的な、
    「万国博覧会」や「オリンピック」、
    それはまさに「世界中」から、
    物理的に「人が集まり」、
    そこで「祭」が行われるという形態。
    それは「アート」で言う、
    展覧会やアートイベントも同様の形態。
    近代ではその形態が、
    「貴重なもの」であり「重要なもの」、
    としての「合理性」があったわけですが。
    もう現在において、
    その様なある種「近代の美徳」、
    すなわち「中央集権型」自体が、
    現在において、
    「高コスト」「高リスク」であり、
    「非合理的」なものである。
    まさにその様な現実が、
    「潜在化」していたものが、
    「顕在化」した。
    まさにそれが、
    今回のコロナショックの本質なのである。
    そしてこれと同時に、
    「分散型社会」「分散型世界」、
    「ブロックチェーン」など、
    世界のパラダイムシフトは、
    スピードを増して広がるであろうし。
    私が提唱し発明した。
    「ウェブアート」や、
    「ウェブインスタレーション」の理解も、
    格段に進むであろうと期待している。
    美学者母
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    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/04/08(水) 01:52:36|
    2. 美学・哲学
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    落合陽一などのサイエンスアートやメディアアートと工芸の同義性。(スペック-性能がファンクション-機能を超えた、オーバースペックに美は無く、ただただ愚かである)

    現在まさにコロナショックの真っ只中であり、
    これから長く続くであろう大不況の入り口に、
    さしかかっているのは、
    誰の目から観ても明らかな状況である。
    今回の新型コロナの流行は、
    パンデミック(世界的流行)と同時に、
    情報(Information)の流行(Epidemic)、
    すなわち「インフォデミック」とも言われています。
    現在のインターネット社会では、
    様々な情報が一瞬にして世界中に拡散し、
    さらに様々な個人が憶測やデマを流す事で、
    さらに混乱は大きくなっています。
    私は現在のこの様な現状は、
    表題にも書いた、
    スペック-性能がファンクション-機能を超えている。
    つまりオーバースペックにこそ、
    その問題の真理があると考えており、
    それがまさに「人間の愚かさ」なのだと感じています。
    この様な「人間の愚かさ」とは何かというと、
    それは「欲や見栄」です。
    人間というものは、
    私たちが思っている程、
    賢くもありませんし、
    万能でもありません。
    私たち人間は、
    本来の機能以上の性能を与えられると、
    本来の「人間」というものを「過信」し、
    そこに「神秘性」を幻想するのです。
    それは今回の新型コロナの流行で起こる、
    インフォデミックの様な現象でも、
    自らが発信する情報に「神秘性」を感じる事。
    他にもネット自警団の様に、
    「不完全な存在」に対して、
    自らが発信する情報に「神秘性」を観る。
    その様な「人間の愚かさ」を露呈するわけです。
    まぁこの様な事を私は最近考えていたのですが、
    ふと、以前に書いた落合陽一の事を思い出して。
    落合陽一の例えば「魔法の世紀」で言説している事と、
    ちょうど明治期にアートが輸入され、
    工芸という概念や言葉が産まれた、
    そのコンテクストと全く同じである。
    その様な事に気づいたのですwww
    工芸というのはそもそも、
    現在でいう工業と同じ様なもので、
    私たちが生活で日常的に使うものを、
    手仕事で造っていたわけです。
    しかし産業革命以後、
    様々なものが機械化に伴い大量生産され、
    その手仕事の職人たちをどうにか残そうと、
    それが所謂「伝統工芸」であり。
    それら「工芸」を「アート化」したものが、
    「美術工芸」なのです。
    この「伝統工芸」と「美術工芸」の大きな違いは、
    もともと手仕事で工芸を職人としてしていた人達、
    それらの流れが「伝統工芸」であり。
    現在の「東京藝術大学」などの、
    所謂学校で工芸を学んだ人達の流れが「美術工芸」です。
    さらに持論で言えば、
    東京藝術大学などの「油画、日本画、彫刻」などの、
    所謂美術を学んだ人達の流れが「工芸美術」です。
    この様に「工芸」と言いましても、
    かなり複雑な様相があるわけですが。
    この「日本の工芸」という概念に通底する原理は、
    「オーバースペック」という原理です。
    もっと踏み込んで言説していくと、
    本来の「ファンクション-機能」を、
    産業革命以後に機械化された大量生産品に、
    奪われてしまった「工芸」は。
    「ファンクション-機能」を失い、
    「スペック-性能」を追い求める事でしか、
    存在することが出来なかったわけです。
    さらにその「スペック-性能」を追求する事を、
    「善」とし、
    また「認知不要」な領域まで「スペック-性能」を、
    追求する事で、
    その領域に「虚像神秘性(フィクション)」を創造し、
    その「虚像神秘性(フィクション)」を担保に、
    「人間の愚かさ」である「欲や見栄」を、
    確保してきているわけです。
    それは「日本における美術」も同様で、
    あくまで西洋概念である「アート」を使い、
    いかに近代国家、あるいは国民国家に、
    西洋の国に追いつく為に、
    そして追い抜く為に。
    日展や東京藝術大学を創設し、
    油画、日本画、彫刻などを、
    アートそのものの真理を輸入せず。
    それはアートそのものが、
    西洋の概念であり真理であるわけであるから。
    日本国家というものを前提に、
    国民国家というイデオロギーを作るわけであるから、
    そもそも「美術」そのものが「アート」で、
    あってはならないのであるから。
    「工芸美術」という、
    「スペック-性能」を追求する。
    そしてその「認知不要」な領域まで「スペック-性能」を、
    追求する事で、
    その領域に「虚像神秘性(フィクション)」を創造し、
    その「虚像神秘性(フィクション)」を担保に、
    「人間の愚かさ」である「欲や見栄」を、
    確保してきているわけです。
    これはまさに、
    日本の「工芸」と「美術」の、
    持ちつ持たれつの関係であり、
    「人間の愚かさ」の極みなのである。
    では落合陽一などの、
    「サイエンスアート」や「メディアアート」は、
    いかに「工芸」であるのか。
    それはまさに落合陽一の発言でもあった、
    「テクノロジーはスケールしなくてもいい」という、
    その考え方そのものが「工芸」なのである。
    むしろ「工芸」の様に、
    「スケールできない事」を、
    「人間の愚かさ」である、
    「欲や見栄」で隠そうとしているだけなのだ。
    それがまさに「工芸」が辿った様に、
    「スペック-性能」を追求し、
    「認知不要」な領域に、
    「虚像神秘性(フィクション)」を創造する、
    まさに「欲や見栄」だけの、
    「人間の愚かさ」の極みなのである。
    冒頭でも述べたとおり、
    人間というものは、
    それほど賢いものでもなく、
    万能でもありません。
    それは「認知」という問題でも、
    私たちは私たちが考えている以上に、
    何も観えていないし、
    何も観ていない。
    それは「スペック-性能」以前に、
    「ファンクション-機能」さえも、
    正確に観えていないし、
    正確に観ていない。
    現実(シミュレーション)=機能(ファンクション)、
    さえも正確に認知できない人間が。
    虚像神秘性(フィクション)=性能(スペック)、
    などまず認知できない。
    現にこの世の中には、
    ノーベル賞を貰えない発明や発見は、
    数限りなく無数に存在し、
    アイフォーンの様にスケールしないテクノロジーは、
    数限りなく無数に存在し、
    ツイッターやフェイスブックの様に多くの人に、
    使ってもらえないメディアは、
    数限りなく無数に存在する。
    さらにそのことは、
    脈絡と続いてきており、
    そのほとんどは誰の目にも触れず消えていく。
    「スケールしないテクノロジーの時代がくる?」
    それこそ「工芸」と同じだwww
    人間というものを過信し、
    「スペック=性能」に「虚像神秘性(フィクション)」、
    を見出すということほど愚かな事はない。
    「ファンクション-機能」にこそ真理があり、
    私たちは同時にそこにいるだけで、
    機能を有し、
    美を有しているのである。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/04/01(水) 22:25:54|
    2. 美学・哲学
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    (結論)落合陽一のデジタルネイチャーは全体主義的洗脳であって何も新しく無くただ危険である。(落合陽一は無意識の重要性を理解していない)

    ochiai.jpg




    どもっ美学者母です。
    昨日に落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
    それを論考した文章を書いたのですが、
    かなり長い文章になったので、
    結論としてまとめます。
    まぁとりあえず、
    まだ読んでいない人は、
    落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
    この(結論)を読んでくださいwww
    (結論)
    落合陽一は人間にとっての無意識の重要性を理解していない。
    逆に理解してデジタルネイチャーという思想を提起している。
    という事になれば、
    これは落合陽一自身がこの様に人間を洗脳します!!!
    と宣言している本なのだと受け取れる。
    さらにいうと、
    そもそも落合陽一はヒューマニズムを否定している。
    その上でデジタルネイチャーという提起をしているが、
    それは「自然」では無く、
    人為的恣意的に創造(フィクション)されたもので、
    ネイチャーという言葉、
    つまり「自然」という言葉によったレトリックにより、
    落合陽一の人為性恣意性を隠した、
    ある意味独善的な創造物(フィクション)である。
    また私がツイッターで落合陽一に言説した。
    「テクノロジーはスケールしなくては意味が無い」
    という言説の応答として、
    「魔法の世紀読めばっ」
    という事で読んでみたわけだが。
    落合陽一がなぜテクノロジーがスケールしなくても、
    意味があるのだという思考なのかを理解できた。
    それはそのテクノロジーが、
    意識上にスケールしているということを意識しない、
    それはこの「魔法の世紀」にも書かれているが。
    つまり無意識にテクノロジーが、
    スケールしていることが気づかないという意味で、
    落合陽一はテクノロジーがスケールしなくても、
    意味があるのだという読解を得る事ができた。
    この様な落合陽一の思考スタンスから、
    落合陽一の様々な問題が浮かび上がってくる。
    それは冒頭に述べた「無意識」への無理解である。
    人間にとって「無意識」とはある種その人格にとっての、
    「自我」であり「個性」である。
    それは例えば「洗脳」という文脈で、
    「無意識」というものを考察すれば理解できる様に。
    例えば「オウム真理教」は、
    その「無意識」を「書き換える」事で、
    その「人格」を「洗脳」し、
    ある意味「人格」を変えてしまう事で、
    「オウム真理教」の「教義」を信じ込ませたのだ。
    その上で「信者」は、
    「殺人」さえも「肯定」できる様になる。
    これはある種の「全体主義」でもあるのだ。
    「個人」という「人格」を無視し、
    それは人為的恣意的に「無意識」を書き換える、
    つまり「洗脳」し、
    「個人」という「意識」を無くして、
    その代わりに「全体」としての「意識」が表出する。
    ※添付図参照
    そしてその「全体」、
    つまりそれは「宗教」「国家」「会社」という、
    ものに「主体」が転移する。
    これこそが「個人」という「人格」を無くした、
    「全体主義」なのである。
    さらにその「個人」は、
    無意識が人為的恣意的に書き換えられた事を、
    「自認」していない。
    この様なことを前提に考察してみると、
    「デジタルネイチャー」という思想は、
    ただ単純に「危険な思想」なのだ。
    デジタルネイチャーの思想は、
    例えば私が前述した、
    様々な要素を持っており。
    実際に落合陽一はそれを堂々と、
    「魔法の世紀」で述べているのである。
    これは私が飛躍妄想して言説しているものでは無い。
    例えばテクノロジーと自然の融合とは、
    まさに「無意識」への土足での「介入」であり、
    人為的恣意的な「無意識」の「書き換え」、
    それは「洗脳」である。
    私たちは少なくとも自分の意志で、
    あらゆるテクノロジーを、
    取捨選択する自由がなければならない。
    この様な事からも、
    人間にとっての「無意識」の重要性を、
    落合陽一は理解していない事がうかがえる。
    「無意識」こそ「個人」の根幹なのである。
    では落合陽一は、
    どの様な手法で「個人」の「無意識」を、
    現段階で「書き換えよう」としているのかが、
    非常に問題になってくるのである。
    例えば「オウム真理教」は、
    その「個人」の「無意識」を書き換える為に、
    教義にある「絶対的体験」を、
    「薬物」つまり「覚醒剤」などによって、
    体験させていた事は事実として残っている。
    人間にとって「体験」ほど、
    その人を「洗脳」させる方法はないのである。
    他人にいくら「論理的」で「合理的」な説得があっても、
    それは「主体」が実際に「体験」したもの以上の、
    「納得」は得る事ができないのである。
    この様な前置きから、
    落合陽一において二つ目の重要な問題として、
    私は落合陽一がこの「洗脳方法」として、
    「アート」という「芸術体験」を、
    利用しようとしているのではないかと考察している。
    だからこそ落合陽一は、
    アートそのものの原理を理解できないし、
    その機能まで誤認しているのである。
    「アート」とは「洗脳」では無い、
    「アート」とは「気づき」の「体験」なのである。
    日常では気づくことのできなかったものを、
    その作品を通して「絶対的な気づき」を得る。
    それは私が言うところの、
    「芸術体験」であり「愛の体験」「悟りの体験」、
    それは「欠損の補い合い」なのである。
    しかし落合陽一は、
    「デジタルネイチャー」の思想でも理解できる通り、
    テクノロジーを無意識化する事を、
    「アート」であると考えているのである。
    これは落合陽一の通底する問題であり、
    大きな勘違いなのだ。
    (最後に)
    アップルやアイフォーン、
    グーグルやアマゾン、
    フェイスブックはある種、
    環境、アーキテクチャを提供している。
    しかしそれは明らかに、
    人間を前提に、
    それは物理的にも人間の眼前に存在する意味で。
    人間の道具として機能している。
    確かにこれらのプットフォーマーの支配は、
    強大であるが、
    「個人」という「主体」を、
    いかに「自由」にするかという、
    「思想」があるのである。
    しかし落合陽一の、
    「デジタルネイチャー」は、
    ヒューマニズムを否定し、
    コンピューターサイエンスという、
    「全体主義」の「意識」を、
    「個人」の「無意識」を「洗脳」して、
    落合陽一という個人の、
    私利私欲によって創造(フィクション)、
    しようとしている。
    この思想はとても危険であると同時に、
    非常に前時代的で、
    私の中では「日本共産党」と、
    なんら変わりのないものなのだ。
    この様な思想が賛美され、
    本が売れ、
    落合陽一自体が、
    国立大学の准教授である。
    その様な現実は、
    私にとっては観測的対象としては、
    意味のあるものではあるが。
    日本全体として
    この様な事が生じている事が、
    日本の現在の表層であるという現実を、
    しっかりと俯瞰して、
    真摯に考えていかなければならない。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/22(日) 16:00:27|
    2. 美学・哲学
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    以前ツイッターで落合陽一を批判したら、本人から魔法の世紀を読めと言われたので読んでみた。(フィクションとシミュレーションの芸術学)

    かなり前にツイッターで、
    僕が発言した、
    「テクノロジーはスケールしないと意味がない」、
    という発言に対して、
    落合陽一が、
    「魔法の世紀読めばぁ」、
    って本人から言われてたのを思い出し、
    落合陽一の魔法の世紀を読みましたwww
    まぁ結論から言うと、
    嫉妬、歪み、歪み、
    などかなり拗らせている本であるということです。
    まずこの本は、
    「コンピューターサイエンス」の「文脈」から、
    入っているのですがwww
    根本的にこの本は「文脈性」を「否定」しています。
    それ以前に、
    「科学」「サイエンス」こそ、
    「文脈性」の上でしか成り立ちません。
    「近代」というのは、
    つまり「科学」の時代であり、
    「演繹性」の時代であり、
    いわば「文脈」の時代であるのです。
    この「文脈性の否定」と「科学の文脈性」の、
    二律背反は一貫してこの本の矛盾を示しています。
    落合陽一が研究者として研究している、
    「実世界指向インターフェイス」も、
    「科学の文脈」において有効な研究であるのは、
    誰の目から観ても明らかです。
    この様な落合陽一の姿勢からも理解できる通り、
    落合陽一という人間は、
    現実を受け止めず、
    自分の都合のいい様に、
    現実を歪曲するという、
    「フィクション」を好むことが理解できます。
    この様な前提の元、
    落合陽一の「アート」の側面、
    つまり「サイエンスアート」または、
    「メディアアート」の部分について、
    この「魔法の世紀」を考察していきます。
    この本では一貫して、
    「文脈性」を「否定」していますが、
    また科学のコンテクストを言説した様に、
    この本では「アートの文脈性」を言説しています。
    例えばマルセル・デュシャンやらジャクソン・ポロック、
    それらを例にアートの文脈性を語り、
    バウハウスを引き合いに、
    デザインを語るという、
    かなり定型的でありステレオタイプな、
    芸術や美術を言説しています。
    さらに言うと、
    芸術や美術の理解が非常に浅い、
    と言うのは、
    美術や芸術を専門にしている私からすると、
    簡単に理解できます。
    それは特に現代アートが、
    「文脈性」のみに依拠していると、
    思い込んでいる事からも理解できます。
    そもそも「現代アート」は、
    コンテクストを加味しているわけですが。
    それはそもそも何が新しいのかという物差し、
    それは人間のあらゆる活動や成長と同じで、
    それはまさしく「科学」も同じ様に。
    全ては「相対性」によってしか、
    「定義」できないわけですから。
    コンテクストを加味する事は、
    現代アートだからではなく。
    科学の他あらゆるものの定義が、
    「文脈」を加味していると言えます。
    そして現代アートの部分的エレメントとして、
    「文脈」が存在している。
    この本で落合陽一が言う、
    現代アートは文脈性のみに依拠している、
    「文脈のアート」であり「文脈のゲーム」と、
    考えているのは明らかな間違いであり。
    さらに言うと、
    自分自身の「メディアアート」を肯定する為に、
    現代アートをその様に扱う事で、
    落合陽一が扱う「メディアアート」こそが、
    「原理のアート」であると言う伏線にしか、
    観えないし、
    そもそも「アート全般」には、
    所謂「造形原理」というものが存在しており、
    それはある一定の「普遍性」を持っている。
    つまり「現代アート」は「文脈」のみに依拠し、
    「原理が無い」という言説は、
    そもそも落合陽一の現実の歪曲であり、
    「フィクション」なのである。
    さらに落合陽一のアートの浅はかさは、
    自らの「メディアアート」を「原理のアート」と、
    呼んでいるのだが、
    その「アートの原理」がそもそも、
    間違っている事からも理解できる。
    落合陽一が言うアートの原理は、
    「感覚的な快不快」であると言っています。
    その上で「心を動かす」、
    「感覚に訴えかける」ことが勝負である。
    「アートの原理」は「感動」、
    これはなんとも幼稚すぎ笑えるのですが。
    そもそも「感覚的な快不快」が、
    「アートの原理」足り得るのであれば、
    そもそも「アート」と言うものが必要ないのです。
    それは「メディアアート」も同じですwww
    例えば赤ちゃんは産まれてすぐ泣きだします、
    そして快不快のみで生きているわけです。
    つまり何が言えるのかというと、
    感覚的な快不快がアートの原理足り得るのであれば、
    アートというもの自体の存在は必要ない。
    なぜならば生きるという事自体が、
    「感覚的な快不快」そのものであるからです。
    それは人間以外の生き物に共通します。
    しかし、
    「人間」が「人間たらしめる」ということは、
    赤ちゃんが「感覚的な快不快」で、
    泣いたり笑ったりする動物的側面では無く。
    「人間」が「「人間たらしめる」ものは、
    そういったものを「理性」でコントロールする。
    そこに原理がある。
    それが「人間」「人間たらしめる」という事なのです。
    つまりここから理解できる事は、
    「アート」とは「人間の業」であるのです。
    つまり落合陽一が考える「原理のアート」、
    それもまた現実の歪曲でありフィクションなのです。
    そしてこの「サイエンス」の側面と、
    「アート」の側面を横断的に捉えたか、
    の様に観えてしまう、
    落合陽一が提唱している。
    「デジタルネイチャー」、
    について考察していきます。
    このデジタルネイチャーを簡単に要約すると、
    デジタルとアナログの分別が無くなる。
    その様な状態の事です。
    もっと落合陽一的に言うと、
    そのデバイスが無意識に入り、
    モノとモノが直接的に、
    計算機的相互関係を構築する。
    つまりこれはどの様な事を言っているかと言うと、
    環境、それはアーキテクチャが、
    コンピューターサイエンスによって成される。
    そういった世界を提唱しているわけです。
    しかしこの世界もまた、
    現実の歪曲によるフィクションなのです。
    それは私たちの「世界の真理」を、
    落合陽一は理解していないのです。
    その落合陽一が完全に欠如している「真理」は、
    私たちの世界がフィクションではなく、
    シミュレーション世界であるという「真理」です。
    ここまで言説してきた様に、
    落合陽一は現実を歪曲しフィクションを創造しています。
    この事は落合陽一が、
    「文脈性」を捨て「絶対的創造性」へ回帰している。
    その様な事からも理解できます。
    ある種落合陽一の提起している事は、
    芸術的に言えば「ルネサンス」と同じ、
    「古典回帰」であるわけです。
    つまり落合陽一は最先端な様で、
    一番古い考えに戻ろうとする提起なのです。
    それはまさにこの本の「魔法の世紀」という、
    「魔法」という古い言葉のタイトルからも理解できます。
    この古典回帰はキリスト教的「一神教」への回帰であり、
    さらに言うと「絶対性」への「信仰」、
    つまり「フィクション世界」への勧誘なのです。
    この絶対性こそが、
    様々な分野での「完全を追求」する素地になり、
    その完全への「神秘性」へと繋がる。
    この事は現在の日本の根幹的精神として、
    あらゆる分野に残存しています。
    例えば芸術分野で言えば、
    美術や工芸におけるスペック信仰です。
    このスペック信仰こそが、
    絶対性を信じることの表層の現れなのです。
    そして過去にも何度も言説していますが、
    現在の日本経済の衰退の源泉である。
    電機産業の特に携帯などにおける、
    スペック主義を追求した末路としての、
    業界の崩壊。
    そしてアップルやアイフォーンの躍進。
    私は全く虚構を言説しているのではありません。
    現実を語っているわけです。
    そしてこの現実というものそのものにも、
    絶対性を観るのが落合陽一であり、
    落合陽一が提唱するデジタルネイチャーであり、
    それこそがフィクション世界と言われるものなのです。
    落合陽一の提唱しているデジタルネイチャーにおいて、
    一番問題であるのは、
    絶対性を信じ、
    虚構を信じ、
    現実を信じていることです。
    それが如実に理解できるのが、
    デジタルネイチャーにおける、
    コンピューターサイエンスという自然です。
    落合陽一は世界の真理を、
    0と1というデジタルに求めているわけです。
    しかし世界の真理とは、
    0と1、
    そして0と1それが重なり重なり合っている状態、
    これが真理なのです。
    この事を生活レベルで言ってみると、
    例えばコップというものが隣の部屋にあるのを知っています。
    しかしまだそのコップがあるという認知はしていません。
    この状態は有ると無いが重なっている状態です。
    つまり0と1が重なっている状態になります。
    そして隣の部屋にコップを確認しに行き、
    そのコップを認知した時に、
    コップが有るという状態になります。
    それが例えば1の状態です。
    そして認知できなければ、
    コップは無いという状態になり、
    それが0の状態になるわけです。
    これが世界の真理なのです。
    常に有るものは無いという事を内包し、
    無いものは有るという事を内包している。
    人間はその様な真理をベースにしなければ、
    有るとも無いとも認識不可能なのです。
    この様な事から何が理解できるのかというと、
    落合陽一が提唱しているデジタルネイチャーは、
    常にその自然は0か1の状態であるという事です。
    それは誰も認知していない状態においても、
    そのものは0か1を示しているという事です。
    これはまさに世界の真理として、
    不完全な自然であり、
    デジタルネイチャーという提起自体が、
    フィクション世界である事が理解でき、
    ある意味人間の自己中心的で恣意的な、
    創造物として理解できます。
    つまりこの様な事から、
    落合陽一は、
    デジタルネイチャーにおいても、
    現実を歪曲したフィクションであるのです。
    現在の不安定な世界において、
    「絶対性」を求める思想が回帰してくる。
    そしてそれを人々が熱狂し賛美する。
    これはルネサンスからも理解できる通り、
    人々を求心するカルトになり得るのだと実感します。
    しかしその「絶対性」はフィクションなのです。
    それを前提としてそのフィクションが現実であると、
    落合陽一が提起するのであれば。
    それは不完全性定理を覆すものを発明しなければならない。
    それは言うなれば、
    それがそれ自体で絶対性を証明しなければならないという事であり、
    それのみがデジタルネイチャーの信ぴょう性を担保するものであろう。
    では現在において私たちは、
    どの様にしてこの不完全性定理以後の世界を、
    乗り越えてきているのだろうか。
    それはまさにキリスト教的一神教を乗り越える事であり、
    芸術や美術においては、
    スペック主義を乗り越える事である。
    それはまさに落合陽一が問題にしている。
    マルセル・デュシャン以後の美術が、
    その「絶対性」を乗り越えるファクターなのである。
    また今回この様な言説を行う上で、
    また落合陽一という人間を考察する上でも、
    面白く、
    いかに人間が弱く脆いのか、
    だからこそ一神教同士の争いが、
    まだまだなくならないのだ、
    という現実を体験として理解するのである。
    マルセル・デュシャン以降の美術というものは、
    その「絶対性」の追求を停止した事が重要である。
    そして「絶対性」を停止する、
    つまり「唯一性」を停止させたのである。
    これは例えば一神教的なイデア、
    イデアからくるオリジナル。
    その様な「唯一性」の停止なのである。
    そしてそれらをメタ認知として捉えた時に、
    この世界の唯一性の停止へと広がるのである。
    つまり世界の認識がマルセル・デュシャン以降、
    コペルニクス的転回が生じた。
    それはこの世界が唯一の世界では無く、
    複数存在する。
    というよりも無数に存在する、
    その中のたった一つの世界にすぎない、
    という多重世界という認識である。
    つまりこれは、
    私たちは奇跡的なバランスで、
    この宇宙に存在し世界があるのでは無く。
    無数にある状態において、
    その状態だからこそ生じた世界である。
    だからこそ、
    あらゆる状態に生じた世界は無数にあるのだ。
    つまり私たちの世界そのものは生じているのであって、
    存在そのものに絶対性は無く。
    概念的にのみ存在しているのだ。
    その概念的に存在しているとは、
    例えば「点」という概念は、
    数学的概念上にのみ存在し、
    私たちは点という実態には辿り着かない。
    その様に私たちの世界そのものが、
    概念として生じているのであって、
    私たちが現実として体験するものは、
    つまり世界そのものが仮想である。
    という事は世界そのものが概念であり、
    仮想であるならば、
    それは可能世界として無数に存在し、
    その可能世界はまたさらに可能世界を生じさせる。
    ある種のフラクタルとして、
    あらゆる次元や領域において存在するのである。
    また私たちも、
    その可能世界の一つの世界に存在し、
    その存在を体験する世界を現実と呼んでいる。
    またその現実世界にも思考可能性を内在し、
    その思考可能性において世界を生じさせている。
    この様なシミュレーション世界こそ、
    マルセル・デュシャン以後の、
    「絶対性」に依拠しない、
    不完全性定理を踏まえた世界の認識なのである。
    そしてアートにその表層が生じたのは、
    1917年のマルセル・デュシャンの「泉」から、
    60年以上経った、
    1980年代にシミュレーショニズムという、
    美術運動が表面化する。
    さらに日本にこのシミュレーショニズムが、
    美術評論家の椹木野衣によって1991年に、
    やっと伝わってくる。
    (魔法の世紀を読んだ私の見立て)
    おそらく落合陽一はデジタルネイチャーを、
    シミュレーション世界の一つとして提起しているのであろう。
    しかしアートの原理を感覚の快不快に求めた事は間違いである。
    アートの原理は意識と無意識の二重の転倒にある。
    つまり意識と無意識の関係性、
    意識にあるもの、
    無意識に埋没しているもの、
    それをある種入れ替える事によって、
    絶対的芸術体験は存在する。
    そこから考察すると、
    落合陽一はその様な絶対的芸術体験を、
    体験した事がないのであろう。
    これは同じ人間として、
    またアートを志す人間としては、
    致命的な事である。
    さらにいうと、
    絶対的芸術体験とは、
    仏教での釈迦が体験した悟り、
    そして愛の体験、
    それらと同様の体験である。
    これらの体験に共通するものは、
    欠損の補い合いなのである。
    それは意識と無意識の二重の転倒とも、
    同様の現象である。
    その様な絶対的体験をしていない、
    落合陽一にはとても同情するのである。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/21(土) 18:26:15|
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    信用が価値になる時代の映像論(今なぜYouTubeが必要とされているのか?

    どもっおひさしブリーフ!!!
    美学者母ですwww
    さてYouTube時代と言われて久しいわけですが、
    皆さまYouTubeとどういう風に普段関わっているでしょうか。
    僕なんかは全くテレビを観ないのですが、
    YouTubeは毎日観ています。
    2019年頃から大物芸能人がYouTubeチャンネルを、
    次々に開設しており、
    YouTubeにおいても、
    ある意味大きな潮目の年だったのではないでしょうか?
    昔にテレビが国民の娯楽として普及した時代から、
    国民の娯楽がYouTubeに移行した、
    その様な大きな年だった様に考えています。

    次世代通信システム5Gが本格的に、
    サービスが始まるのを前に、
    ますますこの時代でのYouTube、
    すなわち映像コンテンツの重要性は、
    どんどんと増していくことになるのは間違いありません。

    この様に誰の目から見ても、
    YouTubeなどの映像コンテンツの重要性、
    それが理解できる現代ですが、
    本当の意味で、
    なぜ現代において、
    YouTubeの様な映像コンテンツが、
    需要を拡大し、
    社会にとって必要不可欠なものとなっているのか、
    それを考察していきたいと思います。

    まず前提条件として、
    通信環境が整備されたということは、
    何よりも重要なことであり、
    さらに5Gになり通信環境は、
    さらに改善される中に、
    現代が存在する。
    この様なことはまずもって、
    重要な前提条件です。

    その様なインターネットという、
    ある種インフラが存在し、
    その上で文化的な側面が浮かび上がってきます。
    それはインターネットの普及と同時に、
    情報発信が個人レベルで、
    より簡単に、
    より広く発信できる様になったことです。

    これは創造的活動の発信の個人化であり、
    今まではマスメディアや
    大掛かりな展示などを通してしか、
    アウトプットできなかったものが、
    一気に簡単になり
    アウトプットができるプラットフォーム、
    アプリケーションなどがどんどん開発され、
    誰もが創造者として発信できる、
    その様なある種、
    「すべての人々が芸術家」、
    といえる時代になっているのです。

    この様に、
    インターネット時代以前では、
    創造的活動やそれを発信する事は、
    ある種一定の特殊な人々によって、
    それは旧然の意味としての芸術家、
    などによって独占されていたわけです。

    しかしその様な創造的活動やそれを発信する事が、
    インターネット時代になり、
    あらゆる意味で「コモディティ化」され、
    「芸術コモディティ時代」に突入し、
    誰もが芸術家である時代となり、
    旧然の意味の芸術家たちは、
    自分たちの地位の確保に必死になっています。

    そしてこの様な「芸術コモディティ時代」、
    それがどんどんと進んできた現代に、
    次に重要になってくるものが「信用」なのです。
    なぜならアウトプットされたものは、
    もうインターネット世界に、
    ある種無限に存在している中で、
    そのアウトプットしたものを、
    「信用」してもらう、
    それが現在最も重要なエレメントとなっています。

    ではどの様に信用をしてもらうのか、
    それはまず認知してもらうことが必要です。
    認知されなければ、
    信用も不信もないわけです。
    ここからも理解できるのですが、
    信用される前に認知される必要があります。

    これを読んでいる皆様も、
    私美学者母を知っているから、
    私を信用したり、
    不信になったりするわけです。

    つまりここで何が言いたいのかというと、
    YouTubeというものは、
    認知される場であるとともに、
    信用を勝ち取る場所でもあり、
    信用を失う場所でもあるのです。

    さらにいうと、
    今皆様が読んでいるこの言説、
    これもまた、
    美学者母という芸術家を認知し、
    信用するのか、
    信用しないのか、
    という判断をされるわけで、
    そこで私は信用を勝ち取りたいわけです。

    ではこの様な言語表現と、
    YouTubeの様な映像表現、
    どちらが信用を得やすいかというと、
    それは絶対的に、
    YouTubeの様な映像表現なのです。
    それは絶対的な情報量の差が、
    その信用の差を生み出します。

    まぁ普通に考えて、
    情報量の少ない相手と、
    情報量の多い相手が、
    同じものを伝えようとした時、
    情報量の多い方が信用しやすい、
    つまりこれは、
    情報量が多い方が、
    相手を正確に認知していると、
    人間は思い込むからです。

    この様な事から理解できるのは、
    逆説的に、
    この「インターネット時代」、
    「芸術コモディティ時代」に、
    信用を勝ち取って行こうとするならば、
    YouTubeなどの映像コンテンツを発信する、
    それは自明な事なのです。

    またその信用は、
    信用=価値であり、
    価値=お金、
    という構図で、
    現代の社会がこの様な形で、
    エコシステムが作動し始めている、
    それは間違いない事実であり、
    この信用の質も旧来の信用とは違い、

    「権威」→「信用」→「価値」
    「個人」→「信用」→「価値」

    権威が与える信用に価値があるのでは無く、
    一般市民一人一人が与える信用に、
    価値が生まれてきている事は、
    特筆すべきものだと考えています。

    現在あらゆるものの民主化で、
    個人というものが、
    あらゆる面で肥大化している事は、
    私自身危惧しているわけですが、
    それでも、
    この世界をサヴァイブしていかなければなりません。

    その上でこの言説が、
    皆様の参考になれば幸いです。

    ちなみに、
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    芸術家YouTuber美学者母「芸術系美術系YouTube」
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    美学者母

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    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

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    マクロマティック心理芸術療法研究所
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    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

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            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

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    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

    PC用  http://www.machromatic.net

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