FC2ブログ

    machromatic

    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    あいちトリエンナーレ2019の失敗にみる、情の時代の終焉。(津田大介、東浩紀の友情が日本的な感情を最も神秘とする悪習の最たる例である)

    まず以前に私が書いた、
    あいちトリエンナーレ2019の記事を、
    ご一読ください。

    「いつもアートは感じるものだって言ってる人の、
    あいちトリエンナーレ2019での矛盾」
    https://www.machromatic.net/column_0340.html

    続いて、
    「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプトを、
    ご一読ください。
    https://aichitriennale.jp/about/concept.html

    とここで理解が早い方なら、
    お気づきになるかと思いますが、
    私が書いている文章は、
    あいちトリエンナーレ2019のコンセプトとは、
    真逆の事を言っているわけです。

    まずこの様な私の考え方、
    それを前提条件に、
    色々と話を進めていきたいわけです。

    今回の「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプト、
    それはまさに「情」なわけです。

    その上で、
    まず先に私が表明しておきたいのは、
    私は、「情」というものを「信じていません」。

    「情」というものは、
    「人間」の「合理的判断」を狂わせます。
    つまり「人間の世界」において、
    「信用」できないものである、
    そう考えているわけです。

    しかし「信用」できないからといって、
    それがいらないものだと言っているわけでは、
    ありません。

    なぜなら、
    私たち人間そのものが、
    「情」によって生きていると、
    「実感」する生き物だからです。

    さらに「情」は、
    「人間」のみならず、
    「動物」全般の「生きる実感」の原理、
    であるはずです。

    むしろその様な、
    「動物全般」に備わる「情」から、
    「人間らしさ」を獲得しているものは、
    私は「理性」だと考えているわけです。

    つまり私は、
    情を超えた理性にこそ、
    「人間」としての「機能」があると、
    考えているわけです。

    その様な考察を踏まえて、
    あいちトリエンナーレ2019での、
    コンセプトである「情」。
    それに重ねて、
    津田大介と東浩紀との「友情」。
    日本のアートへの神秘性の、
    在りどころである「感情」。

    それらすべてが、
    日本の「情」を神秘化する、
    表層に観えたわけです。

    私はこの様な、
    日本の「情」に神秘性をみる価値観が、
    昔から嫌いですし、
    あまりにも前時代的すぎると考えています。

    なぜならば、
    ある意味一昔前のインターネットがない、
    その様な時代では、
    ある種、
    「情」という「機能」が、
    非常に「合理的」であったのは、
    間違いないのです。

    しかし現在の様に、
    インターネットが発展すると、
    「情」というものが、
    「非合理的」になっているのです。

    具体例を挙げればキリがないのですが、
    例えばよく言われる、
    「村社会」というのも、
    「情」のよるものでしょう。

    私などは大阪の片田舎の岸和田、
    そんな典型的な田舎の村社会に生まれ、
    あらゆるものが、
    地元の人の繋がりで成り立っているわけです。

    ビジネスでも文化でも、
    娯楽でも、
    なんでも身内を優先させ、
    利権を守り、
    自分たちの食い扶持を確保します。

    それはその時代においては、
    「非常に合理的」であったわけです。

    しかし私の様に、
    「村社会」が嫌いな人間でも、
    「嫌なものは嫌」
    「悪いものは悪い」
    と正直に発言しても、
    生きていけるわけですし、
    むしろ現在では、
    「村社会」の呪縛から抜け出し、
    自分の自由に生きた方が、
    「合理的」なのです。

    「情」というのは、
    ある種「束縛」を生み、
    「合理的判断」を奪います。

    人間は出来るだけ、
    「情」というものから、
    距離をとって生きた方が、
    「合理的」なのです。

    ここであいちトリエンナーレ2019の、
    話に戻りますが、
    今回のコンセプトの、
    「情の時代」というのは、
    現代において非常に遅れたコンセプトである、
    と同時に前時代的であり、
    左翼的な津田大介という芸術監督を考えれば、
    まぁ納得のコンセプトではある。

    そしてあいちトリエンナーレ2019の、
    アドバイザー東浩紀、
    津田大介の友人で、
    友達人選であり、
    まさに「友情」という、
    非常にコンセプトに合致した人選であった。
    しかしこれこそが「村社会」であり、
    典型的な前時代的人選である。

    さらに、

    アート=感情

    というまさに日本の前時代的な、
    アートの解釈により、
    この地域芸術祭、
    「あいちトリエンナーレ2019」は、

    見事に崩壊した。

    ではアートとは感情ではなければ、
    理性なのか、
    知性なのか、

    それは私が尊敬するヴィトゲンシュタイン、
    そのニュアンスを借りれば、

    考え得ることを全て考え尽くし、
    それでもなお考え得ぬものが神秘である、
    であるならば、
    その領域こそがアートの神秘である。

    最後に、

    津田大介はあいちトリエンナーレ2019の、
    コンセプトでこの様に記述している。

    「われわれは、
    情によって情を飼いならす(tameする)
    技(ars)を身につけなければならない。」

    私がいうならこうだ、
    「われわれは、
    (知によって情を飼いならし)その上で、
    神秘を体験せねばならない。」

    美学者母
    スポンサーサイト



    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/19(月) 18:21:18|
    2. アート
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    いつもアートは感じるものだって言ってる人の、あいちトリエンナーレ2019での矛盾(アートは知性と教養、深い洞察によって得ることのできる人間の本質的体験なのである)

    今回の「あいちトリエンナーレ2019」の大炎上、
    これは大勢の人々が、
    「アートを感じる」事で、
    「大炎上」になったわけね。

    僕のネットで繋がってるアート関係者の多くが、
    左翼的思想のアート関係者が多いわけだけど、
    その人たち皆んなが普段は、
    「アートは感じるものだ!!!」って、
    言ってる人なのねwww

    でも今回の、
    「あいちトリエンナーレ2019」の、
    例えば「慰安婦像的な作品」とか、
    「昭和天皇の写真を燃やす作品」とか、
    に関して「考えろ」って言うのね、
    あんたたち、
    さすが左翼御都合主義のダブルスタンダードだね、
    って思っちゃったわけ。

    僕の考えるアート鑑賞の作法ってのは、
    知性と教養、深い洞察、
    そしてそれをベースにした、
    情報を超えた圧倒的な体験、
    それが作法であり、
    アート鑑賞の本質だと、
    もう何十年も言ってるのですね。

    だから最低限の知性や教養は、
    アート鑑賞にはなくてはならないものです。

    では日本の「アートは感じろ」的な、
    そういった間違った鑑賞方法を広めた人たちって、
    日本のアート関係者、
    つまり左翼御都合主義のあんたらなんだよwww

    あんたらが「アート」「芸術」「美術」ってのを、
    「理解不能」にする事で、
    それらの「利権」を確保してきたんでしょ?
    一般人にはわからない様にして、
    本当に理解する為に必要な、
    知性、教養、洞察力を、
    「ブラックボックス」にして、
    ここまでやってきたわけだ。

    そして「あいちトリエンナーレ2019」で、
    鑑賞者たちは、
    あなたたちが誘導してきた鑑賞術で、
    鑑賞したが、
    誰も「慰安婦像的な作品」、
    「昭和天皇の写真を燃やす作品」、
    それらを芸術だとか美術だと、
    「感じ取ることができなかった」わけだ。

    私は今回の事件が、
    「左翼御都合主義アートの終焉」、
    「感じるアートの終焉」、
    「日本の前時代アートの終焉」、
    だと考えているわけです。

    つまり印象派が輸入されて、
    アートという概念が日本に入ってきてから続く、
    「感じるアートの終焉」である。

    またその中心人物が津田大介であるという事。

    今回皆さんもお気づきかも知れませんが、
    私は問題の作品の内容ついて一切触れていません。
    それは今回作家性を持った作品そのものが、
    「被害者」であるという考えがあるからです。

    どんな意味を持った作品でも、
    作家性を持った作品に対して、
    私は敬意を払っています。

    では今回芸術監督の津田大介に、
    一人一人の作家作品に敬意があったのでしょうか?
    まず答えから言うと、
    「まったく無い」、
    さらに言うと、
    自分自身の政治思想を、
    あいちトリエンナーレ2019で具現化する為に、
    アート作品それぞれの表面性を切り取り、
    ツギハギし、
    張りぼての津田大介の、
    政治思想としての「立て看板」を立てた、
    それがまさに、
    「あいちトリエンナーレ2019」なのです。

    つまり、
    今回「あいちトリエンナーレ2019」に、
    参加した作家作品は「被害者」であり、
    津田大介の政治プロパガンダに使われたのです。

    そしてこの津田大介の企てが、
    政治とアートの捻れを起こし、
    「表現の自由」という論点に収束し、
    国際的な問題に発展しているわけです。

    今回の一連の騒動は、
    「日本のアートの闇」が、
    長年の時を経て表層化し、
    「アート」のブラックボックスが、
    解き放たれる事件になると考えています。

    印象派が日本に入ってきて、
    アートという概念が、
    「美術」になった時から、
    「アート」は感じるものだという、
    「偽アート」が自明性を、
    現在も持ち続け。

    またその自明性を利用し、
    アートの名の下で、
    「政治プロパガンダ」を、
    芸術監督として、
    「あいちトリエンナーレ2019」で、
    実行した津田大介。

    これはまさに、
    「西洋のアート」を、
    うまく利用してきた、
    「日本のアートの癌」の集大成なのです。

    ですから今回の問題は、
    その作品その作品の問題ではなく、
    その作品その作品の一部分を、
    津田大介が自分の思想に基づき、
    文脈化し、
    そのコンテクストが、
    「政治的プロパガンダ」だった事、
    それが一番問題だったのです。

    そしてそれは、
    「アートは感じる事」という、
    日本のアートに対する「自明性」をベースに、
    その様な「アートの素地」を利用し、
    津田大介は大衆に対してプライミングしようと、
    試みたわけですが、
    これがまさに、
    「アートのブラックボックス」であり、
    「アート」という理解不能なものだから、
    「許されるのだ」という、
    ある種の「詐欺」を、
    津田大介は日本の国民に仕掛けたわけです。

    しかし津田大介が考えているほど、
    日本の国民は馬鹿ではなかった、
    これは「地域芸術祭」などではなく、
    「政治的プロパガンダ」であると、
    日本の国民が怒り炎上した、
    これが私の今回の一連の考察です。

    私はこの事件と共に、
    日本のアートの「ブラックボックス」が、
    崩壊する事を望んでいます。

    日本のアートの「権威主義」、
    日本のアートで「権威」を持ってる奴らなんて、
    本当に何も理解していないし、
    むしろ「無知」です。

    皆さんにはぜひ、
    今回の「あいちトリエンナーレ2019」で、
    目を覚まして欲しいと考えています。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/15(木) 12:15:27|
    2. mama (美学者母) ブログ
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    江口美都絵という人とか他にも僕の事を読み違えし過ぎている人に送る文章(あいちトリエンナーレ2019に関する僕の一連の論考について)

    あのあのっwww
    多分一部の人達が、
    僕の「あいちトリエンナーレ2019」の、
    一連の論考を完全に読み違えている人が、
    複数人いたのでここで、
    僕の根本的な考え方というか、
    その人たちの次元の違いを提示しますねwww

    僕のアートに関する考え方、
    というかこの世界全体、
    社会全体に対する考え方は、
    「オープソースでフラット」が基本です。

    その上でですがwww
    僕は以前の文章でも、
    三次元での行き詰まりと、
    四次元での可能性というのを明示しています。

    ですから、
    そもそも「既存の枠組みのアート」、
    ってのはクソだと思っているわけです。

    それで、
    江口美都絵って人が、
    「国際芸術展などのキュレーターで、
    津田大介と同類なのだけどぉ〜」って

    国際芸術展の芸術監督ってなんか偉いのか???
    芸術家って偉いのか???

    非常にコンサバティブな権威主義的思考。

    あと僕が、
    「あいちトリエンナーレ2019」に、
    憧れてるwwwとかっ。。。
    まじでそういった低次元で観るのは、
    やめてほしいぃぃぃwww
    まぁそういう人もいるのだろうけど。

    僕はまず権威ってものは信じていないし、
    国際芸術展に出たいとも思っていないし、
    自分の作品がアートマーケットにのりたい、
    とも思っていないわけですね。

    そこは理解してほしいwww

    僕はあくまでインディペンデントで、
    それが僕の存在意義でもあるので、
    自分でアート系民宿として、
    事業もしていますし、
    作品はインターネットの言説を、
    アート作品としてるので、
    極端にいうと、
    今のアートとは無関係の人間です。。。

    そもそも、
    こうやって文章を書いて、
    何万人の人に読んでもらってて、
    僕のアートはこの言説なのだから、
    こうやってインターネットに、
    自らの言説を書くことこそが、
    僕の目的であって、
    それで誰かに芸術家として、
    認められたいとか、
    権威を持ちたいとか、
    そんな欲動が全くないわけです。

    江口美都絵という人もそうですが、
    アート関係者って、
    頭が何周も周回遅れで困るんですよねwww

    何度も言いますが、
    そもそも僕は既存の展覧会、
    何か権威のある展覧会、
    何か権威のある芸術賞、
    何か権威のある芸術祭、

    現代のアートマーケット、

    そんなものどう〜でもいいですwww

    それだったら
    最先端のサイエンスとか、
    最先端のテクノロジー、
    ブロックチェーンやAI、
    その様なものを使った、
    新しい世界や社会、
    新しい概念を、
    どうアートに昇華させていくのか、
    その様な事をメインでやってるのです。

    ですから、
    このインターネットを使った、
    造形としての文章という取り組みも、
    私にとっての、
    重要なアート活動としての取り組み。

    江口美都絵とか、
    他にも僕の事を読み違えてる人がいましたが、
    その人たちの頭の中が、
    あまりにも小さい世界でびっくりしています。

    本当にびっくりwww

    最後に、
    ではどうでもいいのに、
    なぜ批判的な文章を書くのかってのは、
    それがまさに、
    僕の考える世界と、
    今ある世界との差異を、
    表層させる造形としての機能を有するからです。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/12(月) 08:54:19|
    2. アート
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    あいちトリエンナーレとか日本のアートそのものが権威主義なのであって都合よく民主的な表現の自由を訴えるのはナンセンス(民主的な表現の自由とは何か?)

    僕の様な無名で何の力もない、
    一人のアーティストからすると、
    そもそも日本アート界自体が権威主義なんだねwww

    例えば「あいちトリエンナーレ2019」は、
    芸術監督の津田大介がキュレーション、
    してるわけでしょ?
    それで70組くらいアーティストが選ばれている。

    もうその時点で権威主義だと僕は考えるわけ、
    だって僕が「あいちトリエンナーレ2019」に参加したい、
    って思っても参加できないわけでしょ?

    そして「あいちトリエンナーレ2019」は、
    公共事業であるわけだから、
    当然僕にも参加する、
    そして「あいちトリエンナーレ2019」で、
    「表現」する「表現の自由」があるはずだwww

    少なくとも公共事業で、
    税金を使い民主的な「表現の自由」を、
    この事態で訴えるなら、
    僕達無名で何の力もないアーティストが、
    「民主的」な「表現の自由」を、
    「あいちトリエンナーレ2019」で、
    「表現」する「権利」が、
    そもそもあるはずで、
    その「民主的」な「表現の自由」が、
    津田大介という芸術監督がいる事で、
    「阻害」されているのは間違いない。

    となると、
    この「あいちトリエンナーレ2019」は、
    芸術監督津田大介にキュレーションされている事で、
    少なくとも「民主的」な「表現の自由」の権利を、
    訴える立場に無いと言える。

    別に無名で力の無いアーティストが、
    「表現」できないからって、
    「被害妄想」を抱いているわけでもなく、
    「あいちトリエンナーレ2019」そのものが、
    一人のアーティストとして考えると、
    それ自体が「権威主義」なのに、
    都合のいい時だけ、
    「民主的」な「表現の自由」を訴えるのに、
    とても矛盾を感じ、
    都合のいい時だけ、
    「民主的」である事を使うなと言いたいわけです。

    もっと簡単に言うと、
    「あいちトリエンナーレ2019」が、
    そもそも、
    「民主的な表層」と言えるのか?
    それとも、
    「権威的な表層」では無いか?

    右翼的な「体制」と言うものにも、
    当然「権威者」はいるわけだが、
    左翼的な「反体制」の、
    「権威者」と言うのも、
    現代においてはいるわけです。

    現代の日本においては、
    その辺はフラットな社会だと感じています。

    例えばアートで、
    「民主的な表現の自由」を考えた時に、
    「アンデパンダン」という考えがあります。

    それはどんなアーティストでも
    どんな作品でも、
    参加できる展覧会です。

    僕はそもそも、
    トリエンナーレやビエンナーレ、
    それ系統のイベントには、
    ずっと否定的です、
    僕の過去の文章を掘り返してみれば、
    理解できると思いますので、
    本当か確かめたい方は、
    過去の膨大な僕の文章をお読みくださいwww

    つまり、
    トリエンナーレやビエンナーレは、
    あくまで「イベント」であり、
    「エンターテイメント」であるわけです。

    それは芸術監督やキュレーターが存在し、
    一定のコンセプトやテーマを持ち、
    そのエレメントとして、
    アート作品っぽいものを集めて、
    その全体としての完成度を高めるわけですから、
    一人の作家としての、
    芸術表現は、
    一つのアトラクションに過ぎず、
    それは一つの「テーマパーク」であり、
    「祭り事」なわけです。

    そもそもの前提として、
    「芸術」や「アート」は、
    そもそも「スケール」を前提に、
    「表現」されるものではなく、
    「一人の人間」の、
    「非常に高貴な営み」である、
    僕はその様に考えているわけですね。

    ですから、
    この様に「テーマパーク化」されたものは、
    大前提として「芸術」や「美術」、
    「アート」にはなり得ないというのが、
    私の考えです。

    その様な文脈からも、
    例えば「チームラボ」なども、
    私は批判していますし、
    私の文章を読んでいる人は、
    理解されていると思います。

    最後にまとめ。

    そもそも「あいちトリエンナーレ2019」は、
    「アート」「芸術」「美術」では無い、
    そして「あいちトリエンナーレ2019」に、
    展示された作品もまた、
    「アート」「芸術」「美術」では無い、
    それは「テーマパーク」である、
    「あいちトリエンナーレ2019」という、
    アーキテクチャに定義されると同時に、
    「個としての作品性」を消失するからである。

    また「あいちトリエンナーレ2019」自体も、
    芸術監督が70組程度選んでいる事からも、
    全く「民主的」ではなく「権威的」であり、
    今回の問題は、
    「権威」と「権威」の「ヘゲモニー争い」であり、
    なんら「民主的な表現の自由」を、
    訴えるに値しないものである。

    またこの様な「左翼的権威」の特徴として、
    自ら都合のいい時は、
    「民主的」であり、
    「民主主義」を都合良く使う、
    今回の「あいちトリエンナーレ2019」が、
    大炎上し大問題になったのは、
    この左翼的御都合主義が、
    都合良く「民主的表現の自由」を、
    使おうとしたが、

    それを「民主的表現の自由」としてではなく、
    むしろ「左翼的権威」として、
    日本国民が受け止めたからなのである。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/10(土) 15:09:22|
    2. 政治
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    右翼的表現には制限をと言うのに、左翼的表現には表現の自由というダブルスタンダード(今回のあいちトリエンナーレで表現の自由を訴える人の共通点)

    続きを読む

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/07(水) 19:53:31|
    2. 政治
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    愛知県の大村知事は間違っている。あいちトリエンナーレでの公共での表現の自由について。(もう一度公共について再考しよう、表現の自由は公共では限定される。)

    どうもぉ〜!!!
    いやいや盛り上がってますねぇ、
    「あいちトリエンナーレ2019」、
    違う意味でですが、
    しかし改めて色々と考え直す機会になって、
    ある意味良かったのではないでしょうか、

    「表現の自由」とか「公共性」について。

    あの先ほど愛知県の大村知事の会見を見て、
    公共性の考え方がおかしい、
    というか私と全く真逆の事言ってるんですね。
    これって日本人の「公共」に対する誤解の、
    ある意味象徴だと思います。

    過去にも「公共」の意味について、
    解説した文章がありますので、
    リンクを貼っておきます。

    「なぜ日本人はアートを感じようとするのか」
    https://www.machromatic.net/column_0070.html

    「多様性と公共性の違い」
    https://www.machromatic.net/column_0095.html

    「公共」という概念の詳細は、
    リンクに記載されている言説で詳しく説明していますが、
    つまり一般的な日本人が考える「公共」ってのは、
    本来の「公共」という概念の視座が違うんだな。
    しかし重なるところもあるから、
    「公共」という概念が日本の中で誤認されてきている。

    そしてそれが今回の、
    「公共での表現の自由」の問題につながるわけ。

    まず「公共」について簡単に説明したいけど、
    詳しく理解したい人はリンクの文章を読んでね!!!

    日本人の考える「公共」とは、
    「家」の延長だって言われているわけです。

    「つまり自分がされて嫌な事はやるな」です。

    例えば家で立ち小便されたら嫌でしょ?
    だから道とか街で立ち小便するなって、
    それがいわば日本の「公共性」なわけです。

    これは少し難しく言うと、
    「他者認識」と「自己認識」が一致している、
    というのが前提で、
    まさに日本ってのは、
    多民族多人種の国じゃないから、
    そういう「偽の公共」、
    つまり、
    「他者認識」と「自己認識」の一致をベースにした、
    「公共性」が「公共」と混同されるわけです。

    そして本来の「公共」というのは、
    「自己認識」と「他者認識」が一致しない、
    その様な前提にあるのが「公共」なわけです。
    それは、
    多民族多人種の国、
    つまり「多様な価値観」「多様な思想」、
    それを前提にし、
    ある一定の「ルール」を設定し、
    「最低限」それを「守る」、
    それが「公共性」なわけです。

    だから「人格」、
    つまり「個人」では許されることも、
    「公共」では「ある一定のルール」を、
    守りましょう!!!!
    ってのが公共で、
    それは例えば「啓蒙主義」などから始まる、
    「近代」において、
    「個人」の「尊厳」というものが、
    非常に重要になった事で、
    「個人の自由」を担保するために、
    「公共」すなわち、
    多種多様な価値観が交差する、
    または交わる場所では「公共性」を、
    優先させましょうねって話で、
    それ以外は、
    「人格」、
    つまり「個人の自由」を担保しよう、
    そういった考えであるわけです。

    つまり「公共」というのは、
    「個人」というものと一対な訳で、

    「個人の自由」:「公共」

    というわけです。

    簡単な例え話、
    多種多様な価値観や思想があって、
    それぞれがそれぞれの、
    正義や悪を持っていたら、
    それこそ揉め事になって、
    収集がつかなくなってしまいます。

    しかし日本では、
    日本人同士がある程度価値共有しているために、
    本当の意味での「公共性」の意義を、
    実感できないわけです。

    まず「公共」というものが、
    この様なベースにあるという事から、
    今回の「あいちトリエンナーレ2019」の、
    「表現の自由」を考えていかなければなりません。

    つまりこのコンテクストから考えると、
    「公共性」のあるものには、
    ある一定のルールが適用される、
    それが理解できるわけです。

    愛知県の大村知事は、
    「公共」だからこそ「表現の自由」が、
    担保されるべきで、
    「民間」だったら「表現の自由」は担保できない、
    というわけのわからんことを言っておりました。

    皆様もお気づきだと思いますが、
    私の言っている事と真逆なわけです。

    これは日本人的と言いますか、
    日本人は「個人」よりも「組織」優先、
    「個人」よりも「会社」、
    「個人」よりも「国家」、

    つまり「個人」が抹消されていて、
    主体はあくまで「国家」であるという、
    その様な考え方です。

    その「主体」の在りどころが、
    この「公共」の考え方にも顕著に現れています。

    例えばなぜアメリカは「銃社会」を、
    なぜ辞めることができないのか?
    という問題とも繋がります。

    それはアメリカ人にとって「銃」は、
    アメリカ人としてのアイデンティティなのです。
    それは「主体」が「個人」にあり、
    いつでも「連邦政府」に、
    「銃」で戦うのだ、
    という「個人主体」の「表層」なのです。

    つまり人間は、
    「国家」からも「組織」からも、
    誰からも「自由」であり、
    己が「主体」である。

    その様な、
    「個人」としての「主体性」、
    「人間」としての「人格」、
    「人格」としての「人権」、
    「個」としての「人」を考えた上で、
    「公共」というものが浮かび上がってきます。

    ですから「表現の自由」というのは、
    この「個」としての「人」に依存している、
    つまりアメリカで言えば、
    「銃を持つ」というのは、
    「個」としての「人」の、
    「表現の自由」なわけです。

    しかし、
    アメリカでも街中で、
    ぷらぷら「銃」を持って歩く事は、
    「公共性」に反します。

    つまり「公共性」とは、
    多種多様な価値観、
    ダイバーシティにおける、
    一定のルールなわけです。

    今回の騒動、
    「あいちトリエンナーレ2019」
    で展示された一部の作品は、
    言わば公共の場で銃を振り回して、
    これは「表現の自由」だと、
    言ってるのと同じなのです。

    この様に、
    「個」の「人」としての、
    「表現の自由」を、
    「公共」という、
    多種多様な価値観が交わり、
    一定のルールを共有すべき場所で、
    「表現の自由」を主張するという、
    頓珍漢な事態になっているのです。

    ここで問題になるのが、
    「個人としての表現の自由」と、
    「公共としての表現の自由」の混同です。

    アメリカの銃の話で言えば、
    「個人としての表現の自由」は担保されています。
    「公共としての表現の自由」は担保されていません。

    なぜなら公共には一定のルールがあり、
    「表現の自由は制限」されます。

    そしてその制限を検閲と言う人もいますが、
    もしそれが嫌なら、
    「個人としての表現の自由」が担保されていますから、
    「個」の「人」として、
    「表現の自由」を「獲得」すればいいのです。

    そもそも「表現の自由」とは、
    「個」の「人」に与えられた「権利」です。

    それはアメリカ人が「銃」を持つのと同じで、
    今回問題になった作品作家は、
    どこかで場所を借りて展示すればいいのです。

    その展示が強制的に撤去されるなら、
    初めて「表現の自由の侵害」と言えるでしょう。


    日本と西洋の公共の違い



    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/06(火) 17:24:06|
    2. アート
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    不自由なあいちトリエンナーレ2019で一番自由だったのは芸術監督の津田大介だったwww(現代美術の巨匠マルセル・デュシャンから学ぶアートの自由の作法)

    表現の自由〜
    表現の自由〜
    表現の自由〜

    ん?なるほど、
    ネットで見た言葉、
    「現代美術の周回遅れ感」って凄いわかるwww
    なんやろあの前時代感www
    あのセンスの無い感じ。。。

    「表現の自由」って、
    「表現の不自由」の向こう側にあるのが基本。

    現代美術の巨匠マルセル・デュシャンの泉って、
    世界で最も偉大な作品って言われてるのだけれど、
    あれってどんな作品か知ってる?

    デュシャンが展示委員している、
    無審査であるニューヨーク・アンデパンダン展で、
    排除された作品なんだな。

    つまり作品が排除される事態も、
    自らの作品のコンテクストへと組み込む、
    その様な作品や作家の剛性があるわけ。

    それで「表現の自由」の話なんですが、
    僕達アーティストは常に「自由」なんです。
    そもそも、
    僕達アーティストの「表現の自由」を、
    誰も抑止できる訳が無いwww

    もし僕が拐われて身体中ガチガチに束縛されても、
    誰も僕の思考を束縛することはできない。

    そして僕達は常に何かに束縛されている、
    それは世間体かもしれないし、
    自らの思い込みかもしれない、
    「人間はそもそも不自由」なのだ。

    人間は不自由だからこそ、
    「自由」を獲得しようとする生き物だ、
    「自由」は決して「与えられる」ものでは無く、
    「勝ち取る」ものだ。

    今回の「あいちトリエンナーレ2019」でも、
    なぜ「表現の自由」を「与えて」もらおうとするのか?
    「表現の自由」を「担保、保証」してもらおうとするのか?
    その思考センスがダサすぎるのである。

    なぜあんなに脆弱でひ弱な表現に、
    「表現の自由」を獲得する事が逆にできるのか?

    万人が同じで、
    自分の我をただ通しても、
    それが全て通らないのを誰しもが知っているから、
    ただワガママな作品への排除の動きは広がるのである。

    そこにアイロニーやジョーク、
    アートとしての重厚さ次元、
    様々なテクニックを使えば、
    万人が鑑賞できる強度の、
    同じ様な思想信条の作品は作れるのだ。

    僕は今回の事態は非常に幼稚な出来事だと、
    認識している。

    初めから万人が不快に思うであろう事を、
    容易に想像できるものを、
    自分のワガママで表現し、
    それが排除されたら騒ぐって、
    これ完全に子供のだだっ子でしょ。

    少しでも頭がまわる大人なら、
    その不快をコントロールし、
    いかに己の意図した事を、
    できるだけ表現するのか考える。

    ストレートに表現する事が表現?
    これは完全に間違っている。
    そもそも美術は、
    造形を媒介して表現するわけだから、
    美術の本質は抽象度を上げて、
    いかにその体験に臨場感を与え、
    芸術体験させるのかというのが本質である。

    その様な意味で、
    今回の「あいちトリエンナーレ2019」で、
    それを実行できていた唯一の人が、
    芸術監督の津田大介である事は間違いない。

    撤去されることまで加味した表現としては、
    最高の物語、コンテクストを形成した。

    そういう意味で言えば、
    「芸術監督津田大介のあいちトリエンナーレ2019」は、
    アイロニーに大成功したと言える。

    しかしそれは、
    「あいちトリエンナーレ2019」に参加していた作家、
    作品、その他税金や関わった人々、
    全てを犠牲にしてできたものだということ。

    まぁこんなダサい事してるから、
    いつまでたっても日本で現代美術、現代アートが、
    広がっていかないわけです。

    まずもって私たち人間は、
    常に何かに囚われて生きているのであって、
    特に自分で自分の自由を制限しているのである。

    例えば今回の事で言えば、
    その様な表現でしか「表現の自由」を、
    獲得できないという思い込み。
    まずその様な思い込みから、
    「自由」になるべきであろう。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/04(日) 08:45:43|
    2. 美術作品
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    あいちトリエンナーレ2019の平和の少女像撤去についての論考。DJ社長と津田大介、バンクシーに通づる炎上商法の共通点と原理的な違い。(アートディレクターやキュレーターが作家性を無名性に変え自ら作家性を獲得する事の疑問)

    どうも美学者母です!!!
    毎年夏になると遊びに集中しすぎて、
    ネットでの活動を忘れてしまっていますwww

    たまにネットも観ていて、
    あ〜こんな事が問題になってるんだぁ〜って、
    そんな感じで過ごしているのですが、
    なんとなく最近問題になるニュースの共通点というか、
    その様な事に気づいたので記述します。

    僕はアートが専門なので、
    アートのニュースにはやはり目がいくのですが、
    最近、
    あいちトリエンナーレ2019での、
    平和の少女像撤去のニュースが、
    沢山流れてきます。

    まず端的に結論から言いますと、
    あいちトリエンナーレは税金が10億位?
    入っていると報道されていますね、
    この時点で表現の自由だなんだっておかしい、
    これは以前会田誠の公共の美術館での展示、
    でも言いましたが、
    税金を使った上で表現の自由を訴えるのは、
    これは全く筋違いであるという事です。

    芸術家、作家性というものは、
    あくまで「自己完結」で「自己責任」。
    自分の金で自分で全責任を持って、
    自分で勝手にすればいいし、
    それに対して誰も文句は言わないし、
    それこそそれで誰かが文句や撤去をしろ、
    それはまさに「表現の自由」の妨害です。

    しかしこれはあくまで税金が使われている。
    僕は前々から言っていますが、
    芸術家や美術家が、
    税金を元に作品作ってる時点で、
    それはもはや論外である。

    それを前置きにしておき、
    次に津田大介を芸術監督にした時に、
    この様な事が起こることは、
    十二分に想定できるわけで、
    津田大介を芸術監督にした人間が、
    そもそもこの騒動を演出しているわけです。

    そして津田大介はアート素人なわけですから、
    アートのコンテクストを理解して、
    ディレクション、キュレーションする能力が無い、
    だからこそ、
    この様な政治的コンテクストによるものを、
    アートのコンテクストで語るという矛盾を起こすのです。

    しかしその矛盾を利用して、
    自らの表現にしてこの騒動を企てたのも、
    津田大介だという事です。
    そして作品撤去も含めて、
    想定どうりの表現が、
    津田大介としてはできたのでは無いでしょうか、
    昨今この様な個々の作品や作家性を無視した、
    キュレーターやアートディレクター主導の、
    アート表現が非常に多く観られます。

    それはアートがエンターテイメント化し、
    ある種のイベント、祭り的な、
    ビエンナーレやらトリエンナーレやらと、
    本来フォーカスするべき作品作家では無く、
    イベント全体のエンターテイメント化により、
    それをディレクション、キュレーションする、
    その人間の表現素材として、
    作品や作家が扱われている事に、
    非常にアートの危機を感じます。

    つまり今回撤去された、
    「あいちトリエンナーレ2019」の、
    平和の少女像が問題になる事は、
    これが開催される前から誰の目にも明らかで、
    それが撤去しなければならなくなる事を、
    津田大介は予見していたでしょう。
    つまりこれは津田大介の画策であり、
    展示し撤去されるという事態自体が、
    ある意味津田大介の表現であるわけです。

    例えばここで一般の人は疑問に思うでしょう、
    撤去を前提にした表現があり得るのか?
    それは普通にあり得ます。
    例えば私は1998年頃にグラフィティライター、
    をしておりましたが、
    グラフィティというものは違法な行為です。
    ですからグラフィティライターというのは、
    それが消される事を分かって、
    電車や街の壁に落書きするわけです。

    グラフィティは排除されるそれそのもの、
    それも含めてグラフィティであり、
    一瞬でも多くの人の目にとまる事を考え、
    それは時に一時間とか数十分で消されるものです。

    つまり現代において、
    消される、破壊される、撤去される、
    それらもアートの中の一つの表現としての意味、
    を持つわけです。

    それらを上手く使っているのが、
    バンクシーです。

    バンクシーはある種、
    公共性と非公共性、
    価値と無価値、
    意味と無意味、
    その様な人間が信じているある種ドグマに、
    揺さぶりをかけてきます。
    バンクシーの作品は、
    オークションになれば数億、数十億。
    しかし彼は自らの作品をストリートで書きます。
    以前東京でバンクシーのネズミの作品を、
    切り取って保管するというニュースで、
    物議を醸しました。
    それはまさに、
    彼が企てているアートそのものなのです。

    ここで津田大介とバンクシーの対比ができます。

    同じ様に企てている表現が存在し、
    それは物議を醸しています。
    しかし一方は税金で行い、
    一方は自己完結で行なっている。

    私はアートは自己完結的であり、
    自己責任であるべきだと考えています。
    そしてその上で初めて、
    「表現の自由」を獲得できるのだと。

    つまり今回の津田大介は、
    税金を使い、作品や作家性を奪い、
    自らの表現としてそれらを使い、
    炎上させ、撤去させる、
    その様な自らの企てを、
    多くの他人を巻き込み、
    犠牲にし行なった。

    この様な自己中心的で、
    大きなインパクトを起こしたいが為の、
    行為に見えて仕方ありません。

    つまり「作家性」から「大量消費」への、
    表現の移行を強く感じるのです。

    作家や作品を無視した、
    アートディレクターやキュレーターの、
    この様な振る舞いは、
    まさにアートのエンターテイメント化なのです。

    今回のこの件に関して、
    私はバンクシーを相対化させましたが、
    津田大介と同類だと感じたのが、
    レペゼン地球のDJ社長です。

    最近のニュースで知っている方もいる、
    と思いますが、
    後輩の新人をパワハラしたことで、
    炎上し謝罪動画を作り謝罪、
    そしてこの一連のパワハラ自体が嘘で、
    自分の新曲を宣伝する為の企てだった。

    まさに僕は、
    津田大介とDJ社長は同類だと考えています。

    少なくとも私は、
    今回問題になった作品がどうこうより、
    この様な形で、
    アートが作家性を失い、
    エンターテイメント化していく事、
    また責任や資金が「自己完結」できない、
    そんなものが根本原理として、
    アートとして以前に表現として、
    いいものでは無いと考えています。

    現段階の最新情報では、
    どうやら撤去されるという事ですが、
    僕からすれば「ツマラナイデス」www

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/08/03(土) 18:26:32|
    2. 美術理論
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    Profile

    FC2USER590191GYW

    Author:FC2USER590191GYW
    mama Artist Promotion Video
    http://www.youtube.com/watch?v=mR12s6MhMS8



    美術家 「mama」 Official WebSite
    http://www.mamalab.info





    facebook
    http://facebook.com/machromatic






    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















    マクロマティック
    http://www.machromatic.net

    SELECT ART SHOP マクロマティック
    http://machromatic.shop-pro.jp/

    美学者母ブログ
    http://www.aesthetics.jp/

    machromaticメールマガジン登録
    http://www.mag2.com/m/0001288712.html

    ショップメールマガジン登録
    https://secure.shop-pro.jp/?mode=mailmaga&shop_id=PA01073629

    Twitter
    http://twitter.com/machromatic

    skype名 machromatic




    office
    〒596-0021
    大阪府岸和田市松風町25-18
    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会
    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

    PC用  http://www.machromatic.net

    Latest journals

    Latest comments

    Latest trackbacks

    Monthly archive

    Category

    mama (美学者母) ブログ (334)
      映画 (4)
      アート (81)
      日常 (41)
      美学 (6)
      美学・哲学 (71)
      美術作品 (4)
      美術理論 (19)
      政治 (39)
      デザイン (4)
      セックス (0)
      オリンピック (0)
    愛犬武蔵 (1)
    ヒップホップ (4)
    映像 (2)
    ワールドカップ (0)
    経済 (39)
    スポーツ (1)
    福島原発 (1)
    高校野球 (1)
    だんじり祭 (4)
    在日問題 (0)
    インターネット (3)
    宗教 (1)
    ファッション (1)
    展覧会 (1)
    音楽 (1)
    オムニアート (1)

    Search form

    Display RSS link.

    Link

    add link

    Friend request form

    Want to be friends with this user.