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    machromatic

    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    (結論)落合陽一のデジタルネイチャーは全体主義的洗脳であって何も新しく無くただ危険である。(落合陽一は無意識の重要性を理解していない)

    ochiai.jpg




    どもっ美学者母です。
    昨日に落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
    それを論考した文章を書いたのですが、
    かなり長い文章になったので、
    結論としてまとめます。
    まぁとりあえず、
    まだ読んでいない人は、
    落合陽一の「魔法の世紀」を読んで、
    この(結論)を読んでくださいwww
    (結論)
    落合陽一は人間にとっての無意識の重要性を理解していない。
    逆に理解してデジタルネイチャーという思想を提起している。
    という事になれば、
    これは落合陽一自身がこの様に人間を洗脳します!!!
    と宣言している本なのだと受け取れる。
    さらにいうと、
    そもそも落合陽一はヒューマニズムを否定している。
    その上でデジタルネイチャーという提起をしているが、
    それは「自然」では無く、
    人為的恣意的に創造(フィクション)されたもので、
    ネイチャーという言葉、
    つまり「自然」という言葉によったレトリックにより、
    落合陽一の人為性恣意性を隠した、
    ある意味独善的な創造物(フィクション)である。
    また私がツイッターで落合陽一に言説した。
    「テクノロジーはスケールしなくては意味が無い」
    という言説の応答として、
    「魔法の世紀読めばっ」
    という事で読んでみたわけだが。
    落合陽一がなぜテクノロジーがスケールしなくても、
    意味があるのだという思考なのかを理解できた。
    それはそのテクノロジーが、
    意識上にスケールしているということを意識しない、
    それはこの「魔法の世紀」にも書かれているが。
    つまり無意識にテクノロジーが、
    スケールしていることが気づかないという意味で、
    落合陽一はテクノロジーがスケールしなくても、
    意味があるのだという読解を得る事ができた。
    この様な落合陽一の思考スタンスから、
    落合陽一の様々な問題が浮かび上がってくる。
    それは冒頭に述べた「無意識」への無理解である。
    人間にとって「無意識」とはある種その人格にとっての、
    「自我」であり「個性」である。
    それは例えば「洗脳」という文脈で、
    「無意識」というものを考察すれば理解できる様に。
    例えば「オウム真理教」は、
    その「無意識」を「書き換える」事で、
    その「人格」を「洗脳」し、
    ある意味「人格」を変えてしまう事で、
    「オウム真理教」の「教義」を信じ込ませたのだ。
    その上で「信者」は、
    「殺人」さえも「肯定」できる様になる。
    これはある種の「全体主義」でもあるのだ。
    「個人」という「人格」を無視し、
    それは人為的恣意的に「無意識」を書き換える、
    つまり「洗脳」し、
    「個人」という「意識」を無くして、
    その代わりに「全体」としての「意識」が表出する。
    ※添付図参照
    そしてその「全体」、
    つまりそれは「宗教」「国家」「会社」という、
    ものに「主体」が転移する。
    これこそが「個人」という「人格」を無くした、
    「全体主義」なのである。
    さらにその「個人」は、
    無意識が人為的恣意的に書き換えられた事を、
    「自認」していない。
    この様なことを前提に考察してみると、
    「デジタルネイチャー」という思想は、
    ただ単純に「危険な思想」なのだ。
    デジタルネイチャーの思想は、
    例えば私が前述した、
    様々な要素を持っており。
    実際に落合陽一はそれを堂々と、
    「魔法の世紀」で述べているのである。
    これは私が飛躍妄想して言説しているものでは無い。
    例えばテクノロジーと自然の融合とは、
    まさに「無意識」への土足での「介入」であり、
    人為的恣意的な「無意識」の「書き換え」、
    それは「洗脳」である。
    私たちは少なくとも自分の意志で、
    あらゆるテクノロジーを、
    取捨選択する自由がなければならない。
    この様な事からも、
    人間にとっての「無意識」の重要性を、
    落合陽一は理解していない事がうかがえる。
    「無意識」こそ「個人」の根幹なのである。
    では落合陽一は、
    どの様な手法で「個人」の「無意識」を、
    現段階で「書き換えよう」としているのかが、
    非常に問題になってくるのである。
    例えば「オウム真理教」は、
    その「個人」の「無意識」を書き換える為に、
    教義にある「絶対的体験」を、
    「薬物」つまり「覚醒剤」などによって、
    体験させていた事は事実として残っている。
    人間にとって「体験」ほど、
    その人を「洗脳」させる方法はないのである。
    他人にいくら「論理的」で「合理的」な説得があっても、
    それは「主体」が実際に「体験」したもの以上の、
    「納得」は得る事ができないのである。
    この様な前置きから、
    落合陽一において二つ目の重要な問題として、
    私は落合陽一がこの「洗脳方法」として、
    「アート」という「芸術体験」を、
    利用しようとしているのではないかと考察している。
    だからこそ落合陽一は、
    アートそのものの原理を理解できないし、
    その機能まで誤認しているのである。
    「アート」とは「洗脳」では無い、
    「アート」とは「気づき」の「体験」なのである。
    日常では気づくことのできなかったものを、
    その作品を通して「絶対的な気づき」を得る。
    それは私が言うところの、
    「芸術体験」であり「愛の体験」「悟りの体験」、
    それは「欠損の補い合い」なのである。
    しかし落合陽一は、
    「デジタルネイチャー」の思想でも理解できる通り、
    テクノロジーを無意識化する事を、
    「アート」であると考えているのである。
    これは落合陽一の通底する問題であり、
    大きな勘違いなのだ。
    (最後に)
    アップルやアイフォーン、
    グーグルやアマゾン、
    フェイスブックはある種、
    環境、アーキテクチャを提供している。
    しかしそれは明らかに、
    人間を前提に、
    それは物理的にも人間の眼前に存在する意味で。
    人間の道具として機能している。
    確かにこれらのプットフォーマーの支配は、
    強大であるが、
    「個人」という「主体」を、
    いかに「自由」にするかという、
    「思想」があるのである。
    しかし落合陽一の、
    「デジタルネイチャー」は、
    ヒューマニズムを否定し、
    コンピューターサイエンスという、
    「全体主義」の「意識」を、
    「個人」の「無意識」を「洗脳」して、
    落合陽一という個人の、
    私利私欲によって創造(フィクション)、
    しようとしている。
    この思想はとても危険であると同時に、
    非常に前時代的で、
    私の中では「日本共産党」と、
    なんら変わりのないものなのだ。
    この様な思想が賛美され、
    本が売れ、
    落合陽一自体が、
    国立大学の准教授である。
    その様な現実は、
    私にとっては観測的対象としては、
    意味のあるものではあるが。
    日本全体として
    この様な事が生じている事が、
    日本の現在の表層であるという現実を、
    しっかりと俯瞰して、
    真摯に考えていかなければならない。
    美学者母
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    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/22(日) 16:00:27|
    2. 美学・哲学
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0

    以前ツイッターで落合陽一を批判したら、本人から魔法の世紀を読めと言われたので読んでみた。(フィクションとシミュレーションの芸術学)

    かなり前にツイッターで、
    僕が発言した、
    「テクノロジーはスケールしないと意味がない」、
    という発言に対して、
    落合陽一が、
    「魔法の世紀読めばぁ」、
    って本人から言われてたのを思い出し、
    落合陽一の魔法の世紀を読みましたwww
    まぁ結論から言うと、
    嫉妬、歪み、歪み、
    などかなり拗らせている本であるということです。
    まずこの本は、
    「コンピューターサイエンス」の「文脈」から、
    入っているのですがwww
    根本的にこの本は「文脈性」を「否定」しています。
    それ以前に、
    「科学」「サイエンス」こそ、
    「文脈性」の上でしか成り立ちません。
    「近代」というのは、
    つまり「科学」の時代であり、
    「演繹性」の時代であり、
    いわば「文脈」の時代であるのです。
    この「文脈性の否定」と「科学の文脈性」の、
    二律背反は一貫してこの本の矛盾を示しています。
    落合陽一が研究者として研究している、
    「実世界指向インターフェイス」も、
    「科学の文脈」において有効な研究であるのは、
    誰の目から観ても明らかです。
    この様な落合陽一の姿勢からも理解できる通り、
    落合陽一という人間は、
    現実を受け止めず、
    自分の都合のいい様に、
    現実を歪曲するという、
    「フィクション」を好むことが理解できます。
    この様な前提の元、
    落合陽一の「アート」の側面、
    つまり「サイエンスアート」または、
    「メディアアート」の部分について、
    この「魔法の世紀」を考察していきます。
    この本では一貫して、
    「文脈性」を「否定」していますが、
    また科学のコンテクストを言説した様に、
    この本では「アートの文脈性」を言説しています。
    例えばマルセル・デュシャンやらジャクソン・ポロック、
    それらを例にアートの文脈性を語り、
    バウハウスを引き合いに、
    デザインを語るという、
    かなり定型的でありステレオタイプな、
    芸術や美術を言説しています。
    さらに言うと、
    芸術や美術の理解が非常に浅い、
    と言うのは、
    美術や芸術を専門にしている私からすると、
    簡単に理解できます。
    それは特に現代アートが、
    「文脈性」のみに依拠していると、
    思い込んでいる事からも理解できます。
    そもそも「現代アート」は、
    コンテクストを加味しているわけですが。
    それはそもそも何が新しいのかという物差し、
    それは人間のあらゆる活動や成長と同じで、
    それはまさしく「科学」も同じ様に。
    全ては「相対性」によってしか、
    「定義」できないわけですから。
    コンテクストを加味する事は、
    現代アートだからではなく。
    科学の他あらゆるものの定義が、
    「文脈」を加味していると言えます。
    そして現代アートの部分的エレメントとして、
    「文脈」が存在している。
    この本で落合陽一が言う、
    現代アートは文脈性のみに依拠している、
    「文脈のアート」であり「文脈のゲーム」と、
    考えているのは明らかな間違いであり。
    さらに言うと、
    自分自身の「メディアアート」を肯定する為に、
    現代アートをその様に扱う事で、
    落合陽一が扱う「メディアアート」こそが、
    「原理のアート」であると言う伏線にしか、
    観えないし、
    そもそも「アート全般」には、
    所謂「造形原理」というものが存在しており、
    それはある一定の「普遍性」を持っている。
    つまり「現代アート」は「文脈」のみに依拠し、
    「原理が無い」という言説は、
    そもそも落合陽一の現実の歪曲であり、
    「フィクション」なのである。
    さらに落合陽一のアートの浅はかさは、
    自らの「メディアアート」を「原理のアート」と、
    呼んでいるのだが、
    その「アートの原理」がそもそも、
    間違っている事からも理解できる。
    落合陽一が言うアートの原理は、
    「感覚的な快不快」であると言っています。
    その上で「心を動かす」、
    「感覚に訴えかける」ことが勝負である。
    「アートの原理」は「感動」、
    これはなんとも幼稚すぎ笑えるのですが。
    そもそも「感覚的な快不快」が、
    「アートの原理」足り得るのであれば、
    そもそも「アート」と言うものが必要ないのです。
    それは「メディアアート」も同じですwww
    例えば赤ちゃんは産まれてすぐ泣きだします、
    そして快不快のみで生きているわけです。
    つまり何が言えるのかというと、
    感覚的な快不快がアートの原理足り得るのであれば、
    アートというもの自体の存在は必要ない。
    なぜならば生きるという事自体が、
    「感覚的な快不快」そのものであるからです。
    それは人間以外の生き物に共通します。
    しかし、
    「人間」が「人間たらしめる」ということは、
    赤ちゃんが「感覚的な快不快」で、
    泣いたり笑ったりする動物的側面では無く。
    「人間」が「「人間たらしめる」ものは、
    そういったものを「理性」でコントロールする。
    そこに原理がある。
    それが「人間」「人間たらしめる」という事なのです。
    つまりここから理解できる事は、
    「アート」とは「人間の業」であるのです。
    つまり落合陽一が考える「原理のアート」、
    それもまた現実の歪曲でありフィクションなのです。
    そしてこの「サイエンス」の側面と、
    「アート」の側面を横断的に捉えたか、
    の様に観えてしまう、
    落合陽一が提唱している。
    「デジタルネイチャー」、
    について考察していきます。
    このデジタルネイチャーを簡単に要約すると、
    デジタルとアナログの分別が無くなる。
    その様な状態の事です。
    もっと落合陽一的に言うと、
    そのデバイスが無意識に入り、
    モノとモノが直接的に、
    計算機的相互関係を構築する。
    つまりこれはどの様な事を言っているかと言うと、
    環境、それはアーキテクチャが、
    コンピューターサイエンスによって成される。
    そういった世界を提唱しているわけです。
    しかしこの世界もまた、
    現実の歪曲によるフィクションなのです。
    それは私たちの「世界の真理」を、
    落合陽一は理解していないのです。
    その落合陽一が完全に欠如している「真理」は、
    私たちの世界がフィクションではなく、
    シミュレーション世界であるという「真理」です。
    ここまで言説してきた様に、
    落合陽一は現実を歪曲しフィクションを創造しています。
    この事は落合陽一が、
    「文脈性」を捨て「絶対的創造性」へ回帰している。
    その様な事からも理解できます。
    ある種落合陽一の提起している事は、
    芸術的に言えば「ルネサンス」と同じ、
    「古典回帰」であるわけです。
    つまり落合陽一は最先端な様で、
    一番古い考えに戻ろうとする提起なのです。
    それはまさにこの本の「魔法の世紀」という、
    「魔法」という古い言葉のタイトルからも理解できます。
    この古典回帰はキリスト教的「一神教」への回帰であり、
    さらに言うと「絶対性」への「信仰」、
    つまり「フィクション世界」への勧誘なのです。
    この絶対性こそが、
    様々な分野での「完全を追求」する素地になり、
    その完全への「神秘性」へと繋がる。
    この事は現在の日本の根幹的精神として、
    あらゆる分野に残存しています。
    例えば芸術分野で言えば、
    美術や工芸におけるスペック信仰です。
    このスペック信仰こそが、
    絶対性を信じることの表層の現れなのです。
    そして過去にも何度も言説していますが、
    現在の日本経済の衰退の源泉である。
    電機産業の特に携帯などにおける、
    スペック主義を追求した末路としての、
    業界の崩壊。
    そしてアップルやアイフォーンの躍進。
    私は全く虚構を言説しているのではありません。
    現実を語っているわけです。
    そしてこの現実というものそのものにも、
    絶対性を観るのが落合陽一であり、
    落合陽一が提唱するデジタルネイチャーであり、
    それこそがフィクション世界と言われるものなのです。
    落合陽一の提唱しているデジタルネイチャーにおいて、
    一番問題であるのは、
    絶対性を信じ、
    虚構を信じ、
    現実を信じていることです。
    それが如実に理解できるのが、
    デジタルネイチャーにおける、
    コンピューターサイエンスという自然です。
    落合陽一は世界の真理を、
    0と1というデジタルに求めているわけです。
    しかし世界の真理とは、
    0と1、
    そして0と1それが重なり重なり合っている状態、
    これが真理なのです。
    この事を生活レベルで言ってみると、
    例えばコップというものが隣の部屋にあるのを知っています。
    しかしまだそのコップがあるという認知はしていません。
    この状態は有ると無いが重なっている状態です。
    つまり0と1が重なっている状態になります。
    そして隣の部屋にコップを確認しに行き、
    そのコップを認知した時に、
    コップが有るという状態になります。
    それが例えば1の状態です。
    そして認知できなければ、
    コップは無いという状態になり、
    それが0の状態になるわけです。
    これが世界の真理なのです。
    常に有るものは無いという事を内包し、
    無いものは有るという事を内包している。
    人間はその様な真理をベースにしなければ、
    有るとも無いとも認識不可能なのです。
    この様な事から何が理解できるのかというと、
    落合陽一が提唱しているデジタルネイチャーは、
    常にその自然は0か1の状態であるという事です。
    それは誰も認知していない状態においても、
    そのものは0か1を示しているという事です。
    これはまさに世界の真理として、
    不完全な自然であり、
    デジタルネイチャーという提起自体が、
    フィクション世界である事が理解でき、
    ある意味人間の自己中心的で恣意的な、
    創造物として理解できます。
    つまりこの様な事から、
    落合陽一は、
    デジタルネイチャーにおいても、
    現実を歪曲したフィクションであるのです。
    現在の不安定な世界において、
    「絶対性」を求める思想が回帰してくる。
    そしてそれを人々が熱狂し賛美する。
    これはルネサンスからも理解できる通り、
    人々を求心するカルトになり得るのだと実感します。
    しかしその「絶対性」はフィクションなのです。
    それを前提としてそのフィクションが現実であると、
    落合陽一が提起するのであれば。
    それは不完全性定理を覆すものを発明しなければならない。
    それは言うなれば、
    それがそれ自体で絶対性を証明しなければならないという事であり、
    それのみがデジタルネイチャーの信ぴょう性を担保するものであろう。
    では現在において私たちは、
    どの様にしてこの不完全性定理以後の世界を、
    乗り越えてきているのだろうか。
    それはまさにキリスト教的一神教を乗り越える事であり、
    芸術や美術においては、
    スペック主義を乗り越える事である。
    それはまさに落合陽一が問題にしている。
    マルセル・デュシャン以後の美術が、
    その「絶対性」を乗り越えるファクターなのである。
    また今回この様な言説を行う上で、
    また落合陽一という人間を考察する上でも、
    面白く、
    いかに人間が弱く脆いのか、
    だからこそ一神教同士の争いが、
    まだまだなくならないのだ、
    という現実を体験として理解するのである。
    マルセル・デュシャン以降の美術というものは、
    その「絶対性」の追求を停止した事が重要である。
    そして「絶対性」を停止する、
    つまり「唯一性」を停止させたのである。
    これは例えば一神教的なイデア、
    イデアからくるオリジナル。
    その様な「唯一性」の停止なのである。
    そしてそれらをメタ認知として捉えた時に、
    この世界の唯一性の停止へと広がるのである。
    つまり世界の認識がマルセル・デュシャン以降、
    コペルニクス的転回が生じた。
    それはこの世界が唯一の世界では無く、
    複数存在する。
    というよりも無数に存在する、
    その中のたった一つの世界にすぎない、
    という多重世界という認識である。
    つまりこれは、
    私たちは奇跡的なバランスで、
    この宇宙に存在し世界があるのでは無く。
    無数にある状態において、
    その状態だからこそ生じた世界である。
    だからこそ、
    あらゆる状態に生じた世界は無数にあるのだ。
    つまり私たちの世界そのものは生じているのであって、
    存在そのものに絶対性は無く。
    概念的にのみ存在しているのだ。
    その概念的に存在しているとは、
    例えば「点」という概念は、
    数学的概念上にのみ存在し、
    私たちは点という実態には辿り着かない。
    その様に私たちの世界そのものが、
    概念として生じているのであって、
    私たちが現実として体験するものは、
    つまり世界そのものが仮想である。
    という事は世界そのものが概念であり、
    仮想であるならば、
    それは可能世界として無数に存在し、
    その可能世界はまたさらに可能世界を生じさせる。
    ある種のフラクタルとして、
    あらゆる次元や領域において存在するのである。
    また私たちも、
    その可能世界の一つの世界に存在し、
    その存在を体験する世界を現実と呼んでいる。
    またその現実世界にも思考可能性を内在し、
    その思考可能性において世界を生じさせている。
    この様なシミュレーション世界こそ、
    マルセル・デュシャン以後の、
    「絶対性」に依拠しない、
    不完全性定理を踏まえた世界の認識なのである。
    そしてアートにその表層が生じたのは、
    1917年のマルセル・デュシャンの「泉」から、
    60年以上経った、
    1980年代にシミュレーショニズムという、
    美術運動が表面化する。
    さらに日本にこのシミュレーショニズムが、
    美術評論家の椹木野衣によって1991年に、
    やっと伝わってくる。
    (魔法の世紀を読んだ私の見立て)
    おそらく落合陽一はデジタルネイチャーを、
    シミュレーション世界の一つとして提起しているのであろう。
    しかしアートの原理を感覚の快不快に求めた事は間違いである。
    アートの原理は意識と無意識の二重の転倒にある。
    つまり意識と無意識の関係性、
    意識にあるもの、
    無意識に埋没しているもの、
    それをある種入れ替える事によって、
    絶対的芸術体験は存在する。
    そこから考察すると、
    落合陽一はその様な絶対的芸術体験を、
    体験した事がないのであろう。
    これは同じ人間として、
    またアートを志す人間としては、
    致命的な事である。
    さらにいうと、
    絶対的芸術体験とは、
    仏教での釈迦が体験した悟り、
    そして愛の体験、
    それらと同様の体験である。
    これらの体験に共通するものは、
    欠損の補い合いなのである。
    それは意識と無意識の二重の転倒とも、
    同様の現象である。
    その様な絶対的体験をしていない、
    落合陽一にはとても同情するのである。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/21(土) 18:26:15|
    2. 美学・哲学
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    メディアアート、サイエンスアートの使い方見本市こそ、まさに工芸的なのである。(デュシャンは何をしたのか?)

    あのですね。
    僕の文章でいくつかバズってる、
    文章があるのですがwww
    その中でチームラボ批判をして、
    メディアアートやサイエンスアートも合わせて批判して。
    しかしあえてライゾマティックの真鍋大度を評価して。
    僕のこのコンテクストが理解できていない人が多いので、
    改めてこの点について再度詳しく言説していきます。
    僕はライゾマティックの真鍋大度を評価している、
    その様なことからも理解できる様に、
    そもそもメディアアートやサイエンスアートの原理、
    つまりアートの原理は否定していないわけです。
    僕の考え方というのはアートの原理が重要であって、
    その表面性というものはなんでも良い、
    というのが僕の考え方です。
    なのでそれがテンペラやフレスコでも、
    写真や映像でも、
    VRやARでも、
    なんでも良いわけです。
    その上で、
    チームラボの猪子寿之はアートの原理を理解していない、
    しかしライゾマティックの真鍋大度は、
    アートの原理を理解している。
    と言っているだけなんですねwww
    さらに、
    チームラボの猪子寿之は、
    ただのテクノロジーの使い方見本市だと、
    例えて 言っているわけです。
    この様なコンテクストから僕は、
    どの様な問題提起をしているかというと、
    これはまさに日本における。
    「スペック主義」、
    この象徴であり表層だと、
    そしてこの様な「スペック主義」こそ、
    現在の日本の経済の停滞など、
    あらゆる問題の根源的な問題である。
    その様に考え、
    皆様に再考する事を進めているわけです。
    私はこの様な「スペック主義」の問題を、
    あらゆる分野で散見します。
    その象徴的なものが電化製品、
    特に最終的に日本の電機産業を消滅に追い込んだ、
    「携帯」における日本の敗北です。
    私たちは現在当たり前に「スマートフォン」、
    を持っています。
    日本ではアップルのシェアが大きいと思いますが、
    まさにこの携帯の敗北というものは、
    日本のスペック主義の敗北そのものなのです。
    この携帯の敗北を簡単に説明すると、
    日本は「ハード」を大切にしますが、
    「ソフト」に関しては全く重要視しません。
    これはどの分野に関しても言えることです。
    ではこの「ハード」とは何かというと、
    携帯で言えばどれだけ小さくできるかとか、
    どれだけ機能を増やせるかとか、
    どれだけ多く情報を処理できるかとか。
    その様なものが「ハード」です。
    では「ソフト」というのは何かというと、
    携帯で言えばユーザーエクスペリエンス(UX)です。
    どれだけ使いやすいかとか、
    どれだけ便利になるかとか、
    どれだけ役立つかとか。
    どれだけ楽しいかとか。
    その様なものが「ソフト」です。
    つまり「ハード主義」というのは、
    「スペック主義(性能主義)」であり、
    「ソフト主義」というのは、
    「体験主義」なのです。
    また誰の視点で考えているのか、
    というものでも、
    この「ハード主義」と「ソフト主義」は分かれます。
    まず「ソフト主義」というのは、
    作り手目線では無く、
    そのものを享受する人間の視点ですが。
    「ハード主義」というのは、
    あくまで作り手目線なのです。
    作り手が目指す性能というものは、
    自己満足の性能に陥りやすい。
    そして結果実際に日本の電機業界は壊滅したわけです。
    私は芸術や美術が専門ですから、
    この様な「ハード主義」を、
    「工芸」または「工芸的」と言っています。
    それは日本の工芸が、
    まさに「性能」をひたすら追い求める分野だからです。
    さらに本来アート(ART)であるはずの、
    日本の美術というものもまた、
    工芸や工芸的なものしか評価されないし、
    日本人そのものが美術を、
    工芸や工芸的な楽しみとしてしか考えていない。
    というかその様な文化が自明的であるのです。
    これに関しては以前の文章でも述べたのですが。
    これらの素地が、
    日本の明治期のアート(ART)というものが、
    印象派を通して輸入された頃に、
    日展や東京藝術大学などを通して出来上がった。
    それはアート(ART)という概念では無く、
    美術という国家行政として、
    美術という日本の制度として、
    広まりそれが現在の日本にも続いている。
    そしてさらにそれはタイムリーな現象として、
    写実絵画のブームがここ10年近く続いているのも、
    まさにこれらを原理にした現象なのである。
    さらにここから、
    写実絵画のブームと同じくして、
    メディアアートやサイエンスアートの、
    ムーブメントが起こり活況を呈している。
    一見「最先端アート」の様に観えるのだが、
    これは全く写実絵画のブームと、
    なんら変わりのない、
    日本の「スペック主義」の表層であり、
    それらを原理にした現象なのである。
    そもそも私は、
    メディアやサイエンスを、
    アートに昇華する事は否定していないし。
    むしろ私自身がインターネットというものを、
    マテリアルにしてアート活動しているのだから、
    尚更である。
    私はそもそも「スペック主義」を批判しているのである。
    まさにチームラボの猪子寿之は「スペック主義」である。
    チームラボの猪子寿之は、
    メディアやテクノロジーを使った「工芸」なのだ。
    これに対してもっと踏み込んでいうならば、
    そもそも、
    メディアやテクノロジーは「スケール」しなければ、
    原理的意味をなくしてしまう。
    だからこそ現在のメディアやテクノロジーは、
    「ソフト主義」を重視し、
    「ユーザーエクスペリエンス(体験主義)」が残り、
    前述した様に日本の電機産業は壊滅し、
    さらにIT産業でも失敗し、
    ARやVR、さらに人工知能の領域で遅れを取っている。
    つまりまとめると、
    チームラボの猪子寿之は理系の敗者なのである。
    これはまさに明治期に、
    アートから排除された工芸と同様である。
    その共通点は「スペック主義」であることは、
    今この文章を読んでいる人には自明であろう。
    原理としてまた現実として、
    テクノロジーやメディアの価値とは、
    「スケール」する事で、
    より多くの人が便利に快適に、
    幸せに生活する事を最大化させる為のものなのだ。
    それをスペック主義にし、
    テクノロジーやメディアを工芸にする事で、
    己の欲や見栄、自己満足、自己愛。
    その様な事を実現させているに過ぎない。
    またその様なものがアート(ART)では無いのである。
    では皆さんは、
    お前が言っているアート(ART)はなんだ。
    と言われるでしょう。
    私が言っているアート (ART)とは、
    具体的なアーティストで言えば、
    マルセル・デュシャンです。
    私はマルセル・デュシャンは、
    アート(ART)において、
    工芸性を限りなくゼロに近くした初めての人間であり、
    私が最もリスペクトする人間です。
    その上で皆さんは、
    美学者母はアート(ART)に工芸性は、
    全く必要ないと考えているのか。
    と言いたくなるでしょうwww
    その問題に解答すると、
    アート(ART)そのものの成立に、
    工芸性は限りなくゼロに近く必要ないと、
    考えています。
    しかし人間が前提条件のアート(ART)に、
    工芸性をゼロには出来ないでしょう。
    それはゼロにしたくても出来ないという事です。
    私は村上隆はとても工芸性にこだわっている。
    その様に考えています。
    それは実際に何度も作品を観ている人なら、
    理解できる事です。
    しかし村上隆は、
    その日本的な工芸性を追求する事そのもの、
    それを日本的な平面性に加えて、
    アート(ART)に昇華しているわけです。
    この様な実例からも、
    マルセル・デュシャン、
    村上隆、
    その様なアーティストから理解できるのは。
    アートとは認知の問題であり、
    視座であり、
    見方であり見え方なのです。
    それはある種の神であり、
    「信じるから神はいるのだ」
    「神がいるから信じるのだ」
    という違いと同じなのです。
    「神がいるから信じるのだ」という認知は、
    まさに「ハード主義」「スペック主義」であり。
    「信じるから神はいるのだ」という認知は、
    「ソフト主義」「体験主義」なのです。
    つまり、
    「神がいないのになぜ神を信じるの」、
    という「ハード主義」「スペック主義」の人間には。
    「信じる事で神がいる」事を体験する、
    「ソフト主義」「体験主義」の体験が、
    永遠に観えないし理解できないのです。
    この様に「ハード主義」と「ソフト主義」では、
    物事の見え方が絶対的に違い、
    絶望的な次元の違いを産み出します。
    結論その「ハード主義」「スペック主義」が、
    現在の日本の主流であり、
    また日本のあらゆる衰退の原理が、
    この事に集約され、
    その表層として、
    美術において写実絵画のブーム、
    チームラボ猪子寿之などによる、
    メディアアートやサイエンスアートの、
    ムーブメントが起こっているわけです。
    この様な日本の、
    「ハード主義」「スペック主義」から、
    「ソフト主義」「体験主義」へ、
    いかにパラダイムシフトできるかが、
    今現実的な問題として、
    取り組んでいかなければならない。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/16(月) 16:07:57|
    2. 美術理論
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    コロナショック!!!株、金、ビットコイン暴落中!!!こんな時だから価値の原理を知ろう。(相場における底値こそ価値の原理である理由)

    sokone.jpg



    コロナショック、
    コロナパニック。
    現在世界中が混乱の真っ只中です。
    私もアート系民宿を営んでいるので、
    トイレットペーパーを買いに、
    近くのホームセンターヘ行ったのですが、
    トイレットペーパーは売り切れ。
    さらに生理用品やオムツまで品薄で、
    改めて人間の恐ろしさを知るとともに。
    現代の社会がいかに脆いのかという現実を、
    例えば昔のオイルショックの状況など、
    テレビを通して観ていたのですが、
    まさか自分が生きている時代に、
    同じ様な事が起こるとは、
    考えてもいませんでしたwww
    という事で、
    現在コロナショックの影響で、
    世界中の株価は暴落し、
    安全資産であるはずの金まで下落し、
    ビットコインは半値ほどになっています。
    これから金融経済の混乱から、
    実体経済への混乱へどんどん広がっていく様相です。
    まぁ僕はこの様な世界の混乱の中で、
    改めて価値の原理というものを、
    皆様に考え直して欲しいと考えています。
    価値の原理を知る事で、
    私たちはどの様な世界に生きており、
    どの様な原理原則において物事が動いているのか。
    それを知ることにより、
    現在のパニックというものを、
    より冷静に、
    より客観的に認識し、
    合理的な判断を取る事ができるのではないか、
    そう考えています。
    まず「価値」というものを考える上で、
    私たちの日常的にある「実体経済」というもの、
    その上で考えると、
    私たちは労働を行い対価を得ています。
    その他にも、
    ものを購入して対価は払います。
    サービスを受けて対価を払います。
    これらは「対価」つまり「等価」の交換、
    言い方を変えれば、
    実体経済というものは、
    「Win-Win」という価値によって、
    経済が回っていく仕組みです。
    もっというと、
    近江商人は三方良しという哲学で、
    売り手、買い手、さらに社会、
    それら全てにメリットがある。
    その様な事が実体経済においての価値であるのです。
    しかしその実体経済で使われる「対価」というもの、
    すなわち「お金」、
    「通貨」で、
    日本では「日本円」というものは、
    「金融経済」から産まれてくる「価値」であり。
    私たちの「価値の原理」は、
    実体経済のみに属していると思い込んでいても、
    「金融経済の価値」に「原理」を求めなくてはなりません。
    それは私が専門とする「芸術や美術」も例外ではありません。
    もともと「物々交換」であったところから、
    「通貨」というものを使う様になった時から、
    私たちの「価値の原理」は、
    「実体経済」から「金融経済」というものに、
    移行しているのです。
    実体経済での「価値」とは、
    「Win-Win」であるのに対し、
    金融経済での「価値」とは一体なんでしょうか。
    それを理解するにはまず添付画像をご覧ください。
    ※ 添付画像参照
    まず「金融経済」において「相場の形成」というのは、
    もっとも重要な原理です。
    またその相場は「閉じた系」であり、
    買ったものは売らなければならい、
    売ったものは買わなければならない。
    そしてその売り買いにおける「差益」こそが、
    「金融経済における価値」なのです。
    金融経済における「価値とは差」なのです。
    なんども言いますが、
    これは非常に重要です。
    逆説的に言うと、
    「差」を生み出すものには「相場」が創造される。
    と言うことになる。
    さらに差というものは相対的なものであり、
    「相対性」によって「価値」が定義されている。
    その様な事も理解できます。
    そして添付図を解説していきますが、
    例えば無価値(0円)のものが、
    相場を形成し10円で買う人間がいた。
    そうすると10円で売る人がいるわけです。
    つまりこれが「相場」であり、
    ここに相対性が産まれます。
    例えば、
    円とドル、
    株と円、
    金とドル、
    BTCと円など。
    しかし相場では買いっぱなし、
    売りっぱなしという事で価値を享受できません。
    それは相場の前提条件として「閉じた系」であるからです。
    必ず相場で買った人間は売り、
    売った人間は買い、
    つまり自分が相場で行なったことに対して、
    逆の行為を行う事で相場は完結します。
    それは相場は「閉じた系」であるからです。
    その様な原理を踏まえた上で、
    再度添付図を見てください。
    この相場の最低単位は1円とします。
    相場が形成され、
    無価値(0円)であったものを、
    10円で買った人間がいます。
    すると同時に10円で売った人間がいます。
    そして相場の原理をこの状況に当てはめると、
    買った人間は必ずその逆の行為である売り、
    売った人間は必ずその逆の行為である買い。
    それを行なった上で相場は完結します。
    そして相場の価値の原理である「差」というもの、
    「金融経済の価値」を追求すると見えてくるものがあります。
    それは一度相場を形成したものは、
    必ず「底値」を形成し、
    決して無価値(0円)には戻らない原理です。
    金融経済における相場では、
    実体経済の様に「Win-Win」という、
    「価値の原理」はありません。
    金融経済の「価値の原理」は「差」です。
    それは得する人間と損する人間がいるという事です。
    これは世界や社会がどの様な状況においても、
    その原理は変わりません。
    この添付図で言えば、
    10円で売った人と、
    10円で買った人がいるわけですが。
    必ず相場ではその逆の行為、
    つまり10円で売った人はどこかで買い戻し、
    10円で買った人はどこかで売り払わなければなりません。
    つまり添付図では、
    10円で売った人は0円では買い戻せませんから、
    必ず1円以上の値段で買い戻します。
    その上で9円の利益が産まれます。
    10円で買った人はどこかで売り払わなければなりませんから、
    必ず1円以上の値段で売り払います。
    その上で9円の損失が産まれます。
    すなわちここで極限の相対性が産まれ、
    それが相場では底値と言われるものになります。
    この様に金融経済では、
    誰かが得をして誰かが損をする。
    その「差」こそが「価値」なのです。
    そしてその差を、
    つまり「価値」を生み出すには、
    かならず「底値」があり、
    その底値は必ず「切り上がって」きます。
    それは「底値」が切り上がらないと、
    誰も得をしないからであり、
    全ての人が損をするという事自体、
    金融経済における価値が無くなる。
    それはまさに資本主義経済の消滅と同義なのです。
    資本主義経済の崩壊というのは、
    私のビジョンに即するものであるのですが、
    今回のコロナショックによって、
    資本主義経済が終焉する。
    その様な事はないのでしょう。
    ですから、
    株にしても金にしても、
    資本主義経済、
    金融経済が続く限り、
    底値を切り上げていく。
    その原理原則は変わらないという事です。
    この様な放物線の世界というのは、
    ある種の真理であり、
    それは人間そのものの人生というものにも、
    当てはまるもので。
    人間の人生もまた、
    局所的に観ると地獄の様な状態でも。
    人生という長いスパンで観れば、
    底値は切り上がっているのではないでしょうか。
    美学者母

    テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

    1. 2020/03/14(土) 00:14:12|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    18歳で己の人生を実験にすると決意した。(己の人生を実験にするとは如何なることか)

    18歳の僕はふと考えた。
    僕は18歳まで、
    自分の人生を、
    自分で客観的に観た事がなかった。
    僕は小学校から高校まで、
    野球一筋で生きていた。
    野球を始めたきっかけも、
    親が熱狂的な阪神ファンの野球好き、
    そして自分の子供をプロ野球選手にさせたい。
    その様な親の考えで、
    岸和田リトルリーグに入団させられた。
    そしてそのまま、
    中学では岸和田シニアリーグ、
    高校は甲子園出場実績もあり、
    ベスト8まで行った事のある、
    鳥取県の倉吉北高校へ野球留学。
    ただひたすら野球に集中し、
    その上で自然に時間は過ぎていき、
    ただ無心にその人生の中に没入し、
    無思考に高校を卒業していた。
    僕は1978年生まれ、
    当時僕が高校を卒業した頃は、
    いわゆる就職氷河期時代。
    しかし僕は、
    自分の意志は何もなく、
    勝手に大手の製鉄メーカーに逆指名という形で、
    もう高校3年の秋には、
    就職も勝手に決まっていた。
    そして会社に入って、
    当時は新入社員教育が3ヶ月もあった。
    それが終わり配属。
    そしてさらに3ヶ月後には、
    会社を辞めていた。
    辞めた理由は、
    職場にいる定年前のおっさんを観て、
    自分がこの先辿るであろう人生が、
    そのおっさんを通して、
    全て観えてしまったのだ。
    僕は新卒入社をした会社を辞めてから、
    自分の人生を実験台にする事を決意した。
    「自分の人生はもう自分のものではない」
    そう心に強く決意したのが18歳のことである。
    僕は自分の人生を自分のもの、
    つまり自分の為に、
    それは欲や、楽しみ、喜び、幸せ。
    その逆の忍耐、我慢、苦しみ、悲しみ。
    その様なものを、
    自分自身に没入し、
    自分自身だけのものとして、
    自分だけの体験とする事を辞めた。
    それはどういうことか。
    それは常に自分自身に徹底的な客観性、
    つまりメタ認知、
    または超越論的視点で、
    常に生きていくということである。
    僕は常に自分自身を客観的に認知し、
    その都度自分自身を検証し、
    それをフィードバックし、
    そして新たな問題を発見する。
    その様な人生を送っている。
    この様な実験を10年程度続けたある時、
    私が30歳の時に圧倒的な体験を経験しました。
    それは仏教でいう「悟り」という体験です。
    その頃から僕は、
    意識と無意識というものを自由に行き来する、
    その様な能力を手に入れている事に気づきました。
    私が前述した小学校から高校まで野球を、
    集中してやっていた期間というのは。
    ある意味「無意識」で生きていた。
    そしてその後、
    自分自身の人生を実験台にする。
    その様に決意した後は、
    ある意味「意識」で生きていた。
    そしてある時から、
    「意識」と「無意識」を自由に、
    行き来する事が出来る様になったのです。
    私は18歳の時、
    自分自身が「無意識」に生きている事を後悔し、
    徹底的に「意識」に生きる事を実践した。
    それがここで述べている、
    自分自身の人生を「実験台」にする事を決意した。
    この事の深い動機は、
    「自由」を手に入れたいと考えたからです。
    そして「自由」を手に入れるにはどうしたらいいのか。
    それは「人間とは何か」、
    「生きるとは何か」、
    「死ぬとは何か」、
    その様な根本的な原理や真理を、
    意識上に想起させ、
    真摯に向かい合い、
    その事をとことんまで思考する事です。
    私は知らず知らずのうちに、
    30歳まで「真理」を追求し、
    「悟り」の境地を体験する「修行」を、
    「無意識に生きる」ことと「意識に生きる」。
    この二つを実践することで行なっていたのです。
    そして「悟り」を体験する事で、
    「意識」と「無意識」を、
    自由に行き来する術を会得している事に気づきました。
    これは具体的に、
    世界のあらゆるものの、
    見方、見え方、
    それらを自由にコントロールする術でもあるのです。
    ここまで私が述べていることは、
    特別でも無く、
    珍しいことでも無いと考えています。
    それは誰の人生にも、
    私と同じ様な境遇はあるからです。
    その様なあらゆる境遇を、
    どの様に考え、
    そして自分自身の人生に生かしていくのか。
    それだけの違いなのだと考えています。
    この文章が、
    皆様の人生において、
    何かしらの気づきになれば幸いです。
    美学者母

    テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

    1. 2020/03/06(金) 22:23:58|
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    ストリートカルチャーから学んだ、やった者勝ちの世界。(DIY精神、身体論からプラグマティズム)

    僕はまさにストリートで育った人間です。
    ストリートでは誰よりも早く行動したものが勝ちです。
    これは非常に明快であり、
    また非常に公平な評価であるのです。
    その人間の生まれも学歴も関係ない、
    その人間が好かれている嫌われているも関係ない、
    政治も資本力も関係ない、
    ただただそれを真っ先に「発見」し「行動」する。
    それが唯一の評価の基準であり、
    それはリスペクトの対象として観られる。
    ストリートでは行動力こそが必要であり、
    その行動力に必要な根本的原理が「勇気」なのです。
    世の中には沢山のアイデアを持った人間が、
    数えられないほど沢山います。
    しかし現実的にそのアイデアのほとんどは、
    可視化する事なく、
    どんどんと消え去っていくのです。
    それはなぜか?
    その答えは簡単です。
    行動に移さないからです。
    移さない?ではないですね、
    移せないのです。
    まず前述した様に、
    行動力の根本原理は「勇気」が必要だと、
    そう書きました。
    まず一番大きな壁として、
    そのほとんどの人々が、
    行動に移す「勇気」が無いのです。
    どんなことでも、
    誰もまだ行動していない事を、
    現実的に行動に移すという事は、
    かなり大きな勇気を必要とします。
    この時点で、
    そのほとんどのアイデアは消え去ります。
    しかし次に大きな問題が訪れます。
    自分のアイデアを実現しようと、
    勇気を振り絞って行動に移そうとします。
    しかしそのほとんどが、
    「身体性」を伴わない、
    「頭で考えた」机上の空論のアイデアであるので、
    現実的にそれを行動する前提条件が無いのです。
    そしてそのほとんどの人々は、
    この過程を経て99.999%の人々が、
    消え去っていきます。
    これは私が41年間生きてきて、
    実際に見てきた現実です。
    実はほぼ全ての人々は、
    自分自身が置かれている現実を生きず、
    夢想や空論という中を生き、
    それが自分の現実だと勘違いして生きているのです。
    この様な勘違いしている人間は、
    自分自身の人生や立ち位置は無い事にして、
    夢想や空論を平気で自分の考えとして言えるのです。
    それはSNSなどで常に目にします。
    この様な人々は、
    そもそも自分の考えを行動に移す事は出来ないのです。
    それはなぜか?
    先ほども言いましたが、
    そのアイデアはそもそも身体性を伴っていない、
    つまり行動する前提条件が無いのですから、
    行動できるわけがないのです。
    この様な人々は、
    芸術、美術、ビジネス、政治、宗教、
    この世の中に幅広く存在します。
    例えば分かりやすく政治の世界で言えば、
    日本共産党や日本共産党員はまさにそれにあたります。
    自分たちは資本主義の民主主義国家に存在している、
    その様な前提条件を無い事にしなければ、
    そもそも共産党という政治思想が、
    その資本主義の民主主義国家に内包されている、
    という現実で大きな矛盾を生み、
    そもそも存在自体ができないわけです。
    それを無い事にしているから、
    日本共産党は存在し得るのであって、
    それはまさに親に保護してもらっている子供が、
    親に反抗しているが、
    自分がいかに親に保護してもらっているのか、
    気づけないのと同じ状態なわけです。
    この様な状況は、
    例えば、
    学問の為の学問、
    哲学の為の哲学、
    芸術の為の芸術、
    などでも通底している問題です。
    この様なことから私が何を言いたいのか、
    というと、
    全ては自分自身の人生や立ち位置、
    というものから考え始めなければならない、
    という至極当たり前のことなのです。
    私はストリートの世界で、
    18歳の時にこれを学び実践してきました。
    「やった者勝ちの世界」、
    一見聞くと容易い世界の様に思えますが、
    実は非常に厳しく残酷で、
    ドラスティックに勝ち負けが決まる世界です。
    そしてその世界は、
    自分自身の等身大、
    つまりリアルな自分、
    もっというと身体性の伴った思考により、
    自分たちの置かれた状況や境遇に、
    真正面から向き合い、
    その少ないリソースを使って、
    最大限のパフォーマンスを実現する。
    つまり行動していく、
    という事が評価され、
    さらにその事がリスペクトされる世界なのです。
    この様なストリートカルチャーは、
    まさにプラグマティズム的であり、
    またそれらの文化は、
    アメリカ西海岸などから生まれてきた、
    その事は非常に重要なエレメントです。
    現在の日本の経済は斜陽の時代に入っています。
    そして現在の世界的に時価総額が大きい企業は、
    アメリカに集中してきています。
    私はこの日本の斜陽の時代の、
    大きな原因として、
    ここまで述べてきた様な、
    身体性を伴わない夢想や空論が、
    大きな原因であると考えています。
    これからの時代、
    まさに身体性を伴った思考が重要であり、
    DIY精神、プラグマティズム、
    それらを実践していかなければならないのだと、
    改めて強く認識するのです。
    美学者母

    テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

    1. 2020/03/04(水) 21:40:10|
    2. 日常
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    そもそもアートや美術にジャンルや分類は必要ない。(横断的知見による気づきにこそクリエイティビティは存在する)

    どうも皆さん、
    お久しブリーフ!!!
    かなりの間文章を書いていませんでした。。。
    その間に私は何をしていたかというと、
    まぁフィールドワークですねwww
    僕の考え方は身を以て知るという事です!!!
    長く僕の文章を読んでくれている人は、
    前回のビットコインの価値というものの、
    フィールドワークの報告なども、
    目にしていただいたと思うのですが、
    僕はフィールドワークを大切にしています。
    まぁレヴィストロースの構造主義の影響ですが、
    構造主義は合理的で機能的であると、
    私は考えています。
    その上で、
    現在私が何をフィールドワークしているのか、
    と言いますと、
    現段階では詳しくは書きませんがwww
    漠然というと、
    芸術や美術における旧体制の根幹、
    とだけ述べておきます。
    このフィールドワークはかなり時間がかかるので、
    報告は何年も先になりますが、
    きっと面白い報告になると思います。
    まぁその中でも、
    そのフィールドワークで気づいたことを、
    この様に書き綴っていきたいのですが。
    まぁ芸術や美術における旧体制というのは、
    根から腐ってるというのは、
    もうこの時点で十二分に体験しています。
    まず美術で言えば、
    美術の細分化というものが、
    旧体制では当たり前に行われているわけです。
    しかし現在の最先端では、
    あらゆるものを横断的に、
    知り、考え、見る、
    という事は当たり前の事になっています。
    例えば私ごとで考えても、
    様々な事を横断的に、
    知り、考え、見る、
    という事を実践している事は、
    私をウォッチしている方は、
    理解されている事だと思います。
    それは現在において、
    創造的活動には最低限必要な振る舞いだからです。
    では旧体制の美術界ではどうでしょうか?
    例えば日本の最高の公募展覧会である、
    日本美術展覧会ではジャンルが、
    日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書、
    五つの部門に分けられている。
    そもそもこの日展は、
    もともとは官展である。
    つまりこれはどういうことかというと、
    そもそも日本には明治まで、
    現在でいうところの、
    美術や工芸という概念すらなかったわけで、
    その明治にアートという概念が輸入される、
    と同時に万国博覧会や産業革命の影響で、
    アートというものの日本語化が必要となった。
    そして美術という概念や言葉自体が生まれ、
    それと同時に工芸という概念が、
    派生的に生まれたのである。
    つまり美術という言葉自体が、
    明治に生まれ、
    そしてその時期の、
    西洋のアートムーブメントが、
    印象派であった事は、
    私の文章で何度も触れている。
    そしてその様な中で、
    日本国が、
    つまり国家が、
    国の根幹として美術を重要視し、
    それが官展として行われ、
    国民国家の共通の概念や価値観として、
    ある種統一的概念をもって、
    ある種近代の国民国家の、
    国民の統一を目的として、
    官展は行われ、
    現在の日展に繋がってくるわけです。
    つまり旧体制の総本山である日展は、
    日本国における、
    近代国民国家実現への、
    政治プロパガンダの象徴であるのです。
    そしてそれをアカデミックに価値を担保する、
    その様な役割を担ったのが、
    現在の東京藝術大学であり、
    当時は東京美術学校と呼ばれ、
    それもまさに明治期の出来事であるわけです。
    この様な形態は、
    まさにフランスの真似事であり、
    フランス王立アカデミーを中心とした、
    国家が行う芸術政策、芸術行政を、
    そのままに日本に輸入したものなのです。
    そして現在まで続いている、
    日本の芸術大学、
    美術大学などの入試で行われている、
    デッサン試験などは、
    フランス王立アカデミーと同じ方法論を、
    導入したものである。
    と長々と日本の旧体制の美術の成り立ち、
    その様な事を書いたわけですが、
    この様なことから私が何が言いたいのか、
    というとwww
    そもそも美術という概念や言葉自体が、
    日本国という近代国民国家の統一性の政策であり、
    国家の行政として美術という概念や言葉が生まれた、
    という至極当たり前な事実。
    つまり日本の美術という概念や言葉には、
    そもそもクリエイティビティを追求するという、
    ある種破壊的創造は概念には含まれていないのである。
    それはまさに今この2020年の現在も、
    しかばねの如くのさばっている現実。
    そして現実的に、
    日本の美術というのは、
    細分化、ジャンル化、専門化の一途を辿り、
    工芸美術、美術工芸という、
    日本の美術特有の美意識や価値観が生まれた、
    これは前述したが、
    明治における、
    産業革命、万国博覧会、
    近代国民国家確立への国家政策、
    その行政としての日展、東京藝術大学。
    様々なものが混在し、
    生まれてきた日本独自の美術なのです。
    つまり日本の美術は、
    国家というものが前提にある。
    それが理解できますし、
    さらにいうと、
    日本の美術というものは、
    概念である前に制度であるわけです。
    そして制度上にある美術というものを、
    定量的に評価しようと、
    なんとか努力した結果、
    それは技巧というものに、
    最大限の価値を観るわけです。
    その結果、
    日本における平面である絵画、
    立体である彫刻、
    それらも含めた美術は、
    工芸として現在もなお存在しているのです。
    そして最悪な事に、
    国家政策としてできた美術には、
    利権がたくさんあります。
    そしてその利権を確保するために、
    ムラが出来上がり、
    ますますジャンルは細分化され、
    またその細分化されたジャンルは、
    専門性を追求し、
    また細分化されという悪循環が加速し、
    現在に至っているわけです。
    例えば絵画における、
    画家の拘りは、
    社会にとって何の意味を持ちません。
    例えば具体的に、
    芸大美大に合格するためのデッサン。
    細分化された公募団体ごとにある、
    公募団体ごとの作風。
    僕はよく独立美術の展覧会を観に行きましたが、
    独立美術には独立美術の審査員が好む作風がありますwww
    さらに言うと、
    この様な旧体制の美術界で、
    一番重要なのは、
    権威者に気に入られ、
    たくみに政治を行っていく事です。
    まさにこれこそが日本の美術の体制なわけです。
    私はこの様な日本における美術の前提条件、
    それを理解してアート活動をしています。
    そもそもアートとは国家以前性のものであり、
    人間が人間である原理であると考えています。
    だからこそアートにジャンルや分類など無いし、
    絵画や彫刻などという、
    ツールに限定されるものでもありません。
    そしてアートとは、
    今まで観えなかったものが観える事であり、
    今まで知らなかった事を知る事であり、
    今まで気づかなかった事に気づく事である。
    つまりそれは、
    二人以上の人間における欠損の補い合いであり、
    それはまさに「愛」であるのです。
    「愛」こそが「アート」であり、
    それは「国家」など無くても成立するし、
    「政治」など無くても成立するものです。
    すなわち絶対的に違うもの同士が、
    補完しあうその時にこそクリエイティビティは産まれ、
    創造性を原理として、
    パラダイムシフトが起こるのです。
    これから長きに渡って、
    このフィールドワークは続きますが、
    皆様に全容をお届けできる事を、
    私は楽しみにしています!!!
    「愚かこそ美しい」
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/03/03(火) 23:08:46|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

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