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    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    通算44回 切断芸術運動展 に美学者母が参加した意味 (物理空間と情報空間の切断、意味と無意味の切断、無意味と意味の切断、造形と概念の切断、シニフィアンとシニフィエの切断としてのウェブインスタレーション)。WEBで物理空間の展覧会に参加する意味と無意味。


    setudan00.png



    (切断芸術運動展について)

    まず私が今回10年以上ぶりに、
    この様な物理空間上での展覧会に、
    参加させていただいたのは、
    2010年5月9日に「ウェブアート宣言」を、
    宣言して以降初めてになります。

    それはそもそも、
    物理空間上の展覧会などに、
    意味を感じなくなったわけであり、
    それと同時に、
    「ウェブアート宣言」を宣言し、
    もう10年以上に渡って、
    WEBを中心にアート活動を、
    行ってきました。


    その上で今回、
    光栄にも美術家の彦坂尚嘉さんにお誘いをいただき、
    今回「通算44回 切断芸術運動展」、
    に参加させていただきました。

    彦坂尚嘉さんは、Facebook上で繋がらせていただき、
    彦坂尚嘉さんの、現在の美術活動や過去の美術活動を知り、
    また彦坂尚嘉さんの、作品を通して、
    その論理的展開や美術の構造的解釈など、
    私自身のアートに対する姿勢に非常に近いものを覚え、
    私が尊敬する数少ない美術家です。


    彦坂尚嘉さんを詳しく知りたい方は、
    wikiペディアで調べてみてください。


    今回「通算44回 切断芸術運動展」に参加したのは、
    ただ単に彦坂尚嘉さんを尊敬しているから、
    というわけではなく。
    実際にこの切断芸術運動が重要な美術運動であると、
    私自身が理解しているからです。

    その私なりの理解を述べておきたいのですが、
    これから述べることは、
    実際に切断芸術運動を始めた、
    彦坂尚嘉さんの、考えではない、
    また切断芸術運動の運動主体の、考えではない、
    その点は御留意下さい。

    まず現在において芸術、
    特に美術においての創造行為の民主化は、
    日本ではすでに浸透し終わっている。
    その様に私は理解しています。
    つまり美術作品を創るという行為は、
    誰でもできる時代であるというのが、
    私の現在の認識です。

    しかしながらその様な美術作品を創る行為を、
    特権的、特異なもの、
    また特別なものであると差別化する事で、
    旧体制において利益を享受してきた、
    画壇やコミュニティ、
    様々な美術関係者が現在の日本には存在しています。
    その既得権益を守りたいが為の美術システムが、
    明治以降続いている現在の日本の美術システムです。


    つまり、その様な既得権益者にとって、
    美術が誰でも創れるものである事は、
    自らの食い扶持をなくす事であり、
    死活問題であるから、
    事実そうであっても、
    何かしら言い訳をしてそれを否定するわけです。

    現在において美術を創るという行為は、
    スマートフォンやパソコンによって、
    誰でも短時間で容易にできるのです。

    しかしそれ自体を美術であると、
    認めなければ、
    美術という既得権益を守ることができます。

    その上で、
    「切断芸術運動」は、
    美術というコンテクストに則りながらも、
    その美術や芸術の成立を超単純化する事で、
    美術システム内部から、
    その美術システムの崩壊を企てている。
    その様に私は理解しているわけです。

    現在において、
    美術というものを、
    ある種神格化し、
    一部の人間の特別な営みとする事自体が、
    日本にとっても世界にとっても、
    私は不利益だと考えています。

    その上で今回10年以上ぶりに、
    物理空間上で行われる展覧会に参加し、
    何かしらの日本や世界の利益になればと、
    今回参加させていただきました




    (切断芸術とウェブインスタレーションについて)

    現在のアートの成立にとって、
    プラットフォームというものは重要です。
    それは一つのアートプラットフォームと、
    言っていいのかもしれません。

    それは現在のテクノロジーや、
    インターネット社会でも、
    グーグル、アップル、フェイスブック。
    様々なプラットフォーム企業が存在します。
    そして例えば具体的に、
    YouTubeなどのプラットフォームを使い、
    様々な人々がそこで創造的活動を、
    実際に行っています。

    私はこれを、

    現在においてのアート活動だと、
    考えています。

    まさにこの考え方は、
    私が解釈する「切断芸術運動」に繋がります。

    しかしここで疑問が浮かびます。
    では私たちの様な、
    アートを専門にする人間は、
    民主的な創造者と同じなのか。
    それではアートの専門家の意味がない。

    だからこそ私は現在に求められる、
    美術家やアーティストの役割が、
    変わったのだと考えています。
    それは現在の美術家やアーティストは、
    プラットフォーマーに、
    ならなければならないのです。

    それは民主的な創造者に対し、
    プラットフォームとなる芸術構造、
    アーキテクチャとなる環境、定義、概念。
    その様な、
    民主的創造者に対して、
    簡便な芸術構造を開発し提供する。
    それが現在の、
    芸術家、美術家に求められている機能、
    であると考えています。

    その点において、
    彦坂尚嘉さんの「切断芸術」、
    美学者母の「ウェブインスタレーション」、

    それらは、
    アートを簡便に成立させる為の、
    アートプラットフォームであると言えます。



    setudan01.png
    setudan02.png


    (通算44回 切断芸術運動展での美学者母の作品について)

    今回、切断芸術運動展に参加させていただいたのですが、
    実は東京には行っていません、
    もちろん会場の「なかのZERO」にも伺っておらず、
    さらに言うと展覧会場に作品も無いのです。
    厳密に言えばウェブインスタレーションなので、
    ウェブ上にあります。

    今回この様な事にした理由を言説します。

    まず私がウェブアート宣言をした、
    2010年5月9日で私は、
    物理空間での活動を基本的に辞めた、
    という所から始まります。
    それまでの20代の10年は、
    全国の色々な場所へ行って活動していました。
    しかし私はインターネットが広がる世界の中で、
    物理空間での活動が非合理的であると考えました。

    さらに明治以降の日本の美術は、
    西洋の「絶対性」や「唯一性」などを、
    根本原理にしたものでありましたが、
    それはインターネットの登場と同じくし、
    衰退の一途を辿っている事に気づきました。

    例えば展覧会という様式も、
    西洋から取り入れられた様式であり、
    それは「唯一」のものを「観る」、
    または「唯一」のものを「体験」する。
    その様な根本的価値観に基づき、
    成立している様式であるのです。

    つまり今回私は、
    「切断芸術運動展」という展覧会で、
    「展覧会」というものを「切断」する。
    その様な作品を展開しようと試みたわけです。

    具体的にその内容は、
    「通算44回 切断芸術運動展」の行われた、
    「なかのZERO」の展覧会場で、
    様々な美術家やアーティストの作品の間に、
    何も展示されていない壁面と、
    その作者と作品名とWEBアクセス用の、
    QRコードが書かれたキャプションが、
    貼られている。
    その様な状態を会場に創って頂きました。

    この「切断芸術運動展」用に創った、
    ウェブインスタレーション作品のURLは、

    https://www.setudan.com/

    になります。

    つまりここで大きな「切断」が創発されています。
    物理空間で催されている、
    「通算44回 切断芸術運動展」の展覧会場と、
    その展覧会に出品しているはずの、
    情報空間に設置されている、
    「切断芸術(ウェブインスタレーション)」が、
    物理空間と情報空間に切断されていることが、
    理解できます。

    またその設置場所の空間性の違いから、
    物理空間上の空白は無意味であるはずが、
    展覧会場において意味を持ち、
    また情報空間上の作品は、
    ウェブインスタレーションとして、
    意味を持つはずですが、
    物理空間上の展覧会場の意味に、
    意味を剥奪され、
    情報空間上において無意味になります。

    これもまた、
    意味と無意味、無意味と意味の切断です。


    またこの情報空間に創造された造形は、
    「通算44回 切断芸術運動展」に出品する為に作られました、
    しかしその会期は、
    2020年9月1日〜2020年9月7日。
    この会期が終わると同時に、
    この作品の概念は取り払われ、
    インターネットに存在する無数の情報と、
    並列的に並びその造形と概念は切断されます。


    また言語学的に、
    アートと定義した時をシーニュ、
    物理空間のキャプションをシニフィアン、
    情報空間の作品をシニフィエ、
    という二つの側面に分けた時、
    それは見事にシーニュを次元的に切断します。



    (絶対性と収束の美術から相対性と分散のアートへ)

    そもそも「ウェブアート宣言」における、
    ウェブインスタレーションは民主的な、
    アートフォーム、
    アートプラットフォームです。

    情報空間と物理空間を、
    ディスプレイによってヴァインディングする。
    それは情報空間と物理空間の違いが認識できない、
    さらにその情報空間は、
    あらゆるものがフラットに表象される。
    私たちはその眼前に映し出される現実を、
    フィクションではなく、
    シミュレーションという事実として、
    それを現に体験します。

    「ウェブアート宣言」における、
    ウェブインスタレーションは、
    まさにアートシステムにおける、
    「シミュレーショニズム」なのです。


    (美学者母から最後に)

    今回「通算44回 切断芸術運動展」に、
    実際に参加しながらも、
    その展覧会という様式、
    つまり「絶対性」や「唯一性」への批判。
    という形になりました。

    しかし、
    私が2010年に宣言した、
    「ウェブアート宣言」による、
    ウェブインスタレーションを、
    10年以上展開してきた模索の中で。
    今回、「美術システム」における、
    「展覧会」という様式に紐づけることにより、
    アートのコンテクスト上に載せる事が出来た事は。

    展覧会という様式に参加する事にのみ可能でした。


    今回の「通算44回 切断芸術運動展」への参加は、
    私にとって非常に重要な展覧会であった事は、
    最後に述べておきます。


    私の今回の作品の、
    彦坂尚嘉さんの分析結果です。

    「えーと、芸術分析をしておきます。10界があります。そして、5段階の《芸術》が成立しています。」



    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/09/06(日) 18:20:42|
    2. 美学・哲学
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    美術は死んだ(死ぬ事に抵抗は無い、死んだ様に生きる事に抵抗する)


    kega.jpg


    先日大怪我をしまして、
    肋骨4本骨折など、
    体の左半身が重症です。
    まぁこの様に文章をタイピングしているので、
    なんとか生き残ることができたのですが、
    私は常に「死」というものに向き合い、
    日々を過ごしているので、
    体の痛み以外は通常通りです。
    本当は肋骨の骨折の場合は、
    入院する方がいいのですが、
    なんやかんやとやる事が多く、
    入院はお断りしましたwww
    まぁこの文章も、
    現在の臨場感を持って書きたいですし、
    肋骨をおさえながら書いていますwww
    色々予定は狂ってしまったのですが、
    経験上これが人生です。
    私もこの様に死にかけるという経験は、
    人生で5度や6度では足りないのです。
    それは僕自身、
    「死」というものを常に意識し、
    「生」と「死」の間の、
    ギリギリを常に生きているから、
    なのだと考えています。
    別に進んで死にたいわけではありませんが、
    「死んだ様に生きる事」
    それだけには抵抗しています。
    しかしこの様な「死」に近づく経験は、
    ある種それまでの「人生」と、
    それからの「人生」を、
    全く違うものにするし、
    世界の見え方も完全に変化します。
    ある種のイニシエーションの機能を持ち、
    自分自身のそれまでの愚かさを、
    体験的に知るわけです。
    私は日々この瞬間の刹那を意識し、
    謙虚さを持って生きる事で、
    「自己」というものを、
    常にアップデートしているわけです。
    その様な私の経験を踏まえて、
    本日皆様にお伝えしたいことは、
    「美術は死んだ」
    という言説です。
    これはもっと踏み込んで言説すると、
    広い意味では、
    「日本は死んだ」
    という事にもなります。
    それは「美術」は基とより、
    経済、政治、社会、文化、
    様々なものがもうすでに終わっている。
    その事に自分が「死」を実際に感じた後で、
    さらに明確なものであると確信しました。
    それらを少し具体的に言説すると、
    それは「明治以降の日本の終わり」、
    と言えます。
    現在の日本のあらゆるものの基本が、
    「明治」期にできました。
    それは「美術」という言葉や概念も、
    例に漏れません。
    そもそも日本には「美術」という、
    言葉も概念もなかったわけです。
    ART=に対応する日本語と概念として、
    明治にできたのが「美術」です。
    そこから漏れてできたものが「工芸」です。
    そしてその時期の、
    西洋のアートスタイル(美術様式)、
    またはムーブメントが、
    印象派(インプレッショニズム)であり、
    その事に対応した、
    ART=の対概念として、
    「美術」という「日本語」と「概念」が、
    産まれたわけです。
    その様な「明治」期以降の日本は、
    西洋の価値観をどんどん取り入れ、
    国民国家を成立させ、
    経済や科学技術をどんどんと発展させ、
    高度経済成長を迎えるわけです。
    つまりこの成功体験が、
    現在の日本のドグマとして、
    現れているのが現在です。
    それは例えば「美術」で言えば、
    その時代の印象派が全盛であった、
    フランスの「美術システム」を模範し、
    今の東京藝術大学や日展を作ったわけですが、
    それが現在もドグマとして残っています。
    そもそもなぜこの様な、
    日本の「美術システム」が、
    「死んだ」と僕が言うのか。
    それはその様な価値観自体が、
    現在において「不幸」であるからです。
    なぜならこの様な、
    「西洋」の「キリスト教」を基本とした、
    「絶対性」をベースにした価値観は、
    現在西洋においても総括され、
    過去の価値観として清算されています。
    これは「科学」としても「哲学」としても、
    「フィクション」=「絶対性」として、
    扱われており完全に過去の価値観となっています。
    その価値観に囚われて衰退しているのが、
    欧州や日本など、
    時間軸をベースにした、
    「歴史」を拠り所とする国々です。
    それは逆に、
    アメリカや中国など、
    「歴史」を拠り所にしない国々が、
    発展をしている現実からも理解できます。
    つまり日本という単位で、
    もっと言えば世界という単位で考えても、
    いち早くこの、
    「フィクション=絶対性」
    という価値観から脱却することが、
    「世界すべての幸せ」になるという事です。
    この様なものからの脱却は、
    まず「教育システム」から変えなければ、
    どんどんと「負の連続性」を生み出します。
    日本でもこの様な「教育システム」の、
    「負の連続性」に気づき、
    その様な価値観から脱却してきている、
    その様な人々もどんどんと増えています。
    しかし根本的に「教育システム」を、
    変えていかなければ、
    その根本的な「洗脳」はとけないのです。
    それにはおそらく、
    「大きな衝撃」が必要になってきます。
    それは一種のイニシエーションであり、
    それを通過しなければ、
    その様な価値観に移ってはいけないでしょう。
    例えば「美術」の「教育システム」で言えば、
    藝大美大の入試に「デッサン」を用いるのも、
    完全な明治以降のドグマです。
    なぜなら「デッサン」は、
    絶対的な現実という「フィクション」を、
    写し取ろうという行為に他なりません。
    しかしそもそも、
    「絶対的な現実」など存在しない、
    その様な価値観に完全に移行しているのが、
    現在の世界であり、
    これは私の持論でもなく、
    眼前にその事実があるわけです。
    そもそも「デッサン」が、
    フィクションである様に、
    デッサンなどの「フィクション」を、
    信じたい人々は。
    現在の現実や事実そのものから目を逸らす、
    という自分自身そのものが、
    フィクションの世界に生き、
    そのフィクションを見続けている。
    非常に哀れで傲慢な人々なのです。
    しかしその「教育システム」にも、
    変化の兆候もあり、
    東京藝術大学先端芸術表現科などは、
    論文での入試なども取り入れられている様です。
    では現在の「アート」も含めて、
    世界全体はどの様な価値観に移行したのか。
    それは、
    「シミュレーション」
    という価値観です。
    この概念は現在の日本では、
    なかなか理解しづらい概念です。
    それは現在の日本の過半数以上、
    つまり常識が「フィクション」に、
    あるからです。
    「アート」の「システム」ではこれを、
    「シミュレーショニズム」と呼んでいます。
    さらにもっとマクロで根本的な「哲学」として、
    理解するならば、
    アメリカで産まれた哲学、
    「プラグマティズム」
    さらに「科学」や「物理学」として、
    理解するならば、
    「量子力学」など周辺概念から理解すれば、
    「アートシステム」における、
    「シミュレーショニズム」を、
    しっかりと理解できるはずです。
    この様な「シミュレーショニズム」は、
    冒頭に言説した、
    私の「死」に直面した「体験」に、
    繋がってきます。
    つまり私たちは、
    「フィクション」に生きているのでは無い、
    「現実的に現実を生きている」のです。
    それは「他人」の「人生」ではなく、
    「自分」の「人生」です。
    その「人生」は「人間」の数、
    いや最低「人間の数」以上に存在し、
    それは「多重世界」として在るわけです。
    つまり「絶対性」という、
    「唯一」に収束する「フィクション」では無く、
    「相対性」という、
    「分散」に拡散する「シミュレーション」。
    まさに現在の世界はその、
    「シミュレーション」に移行しました。
    しかし、
    日本はそれについていけずに、
    衰退が始まっています。
    現在日本の人々は、
    「経済」「科学」「文化」「芸術」、
    様々な分野で衰退し化石化しています。
    つまり私たちは、
    「未来にある死」という
    「フィクション」を生きるのではなく、
    「目の前にある死」という、
    「シミュレーション」を生きなければ、
    どんどんと化石化し、
    衰退していくしかない、
    それが現在に事実としてある世界なのです。
    美学者母

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    1. 2020/09/02(水) 18:39:52|
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    愛と慈しみの原理(最も遠くの他人への慈しみこそが芸術(アート)を成立させる)

    えっと美学者母です!!!
    僕も「愛」というものを研究して、
    早十年以上経過しているわけですが、
    「愛」というのは「体験」であるわけです。
    そしてその「愛の体験」というものは、
    人間にとって非常に重要な体験であり、
    また別の角度から申しますと、
    一つの「通過儀礼」とも言えるものです。
    また「処女」や「童貞」を過ぎる、
    その様な性体験も同様のことと、
    捉えることができます。
    しかし私も「愛」というものを研究して、
    「愛」というものの人間の重要さとともに、
    その副作用としての危うさというものも、
    「愛」というものを研究する上で、
    避けては通れないものであるわけです。
    つまり「愛」とは「刹那的体験」であって、
    それは決して持続するものではないという、
    非常にシンプルな問題なわけです。
    その様な問題を解決する上で、
    今回重要なものとして「慈しみ」、
    それを考えていきたいと思います。
    まず「慈しみ」というものは、
    「愛」という刹那的体験を原理に発露されます。
    それは「慈しみ」とは、
    「愛」という刹那的体験を通過しなければ、
    現れないものであるという事です。
    その上でこの「慈しみ」と混同されやすいのが、
    「利他」や「利己」という概念です。
    まずこの「利他」や「利己」は、
    意識しようが意識しまいが、
    「自己」が「他者」を通じて、
    「利」を得ようとする行為に他なりません。
    例えば「利己」は、
    「他人」を犠牲にして自分に「利」を得よう、
    その様なものです。
    例えば「利他」は、
    「他人」を優先して「利」をもたらす事で、
    自分にもその恩恵として「利」を得よう、
    その様なものです。
    しかし「慈しみ」とは、
    そもそも自分に「利」というものを、
    意識すらできないというものです。
    それを簡単な図で表したものをご覧ください。

    ※添付図参照(利己と利他と慈しみの違い)

    itukushimi.png



    この図は、
    利己と利他と慈しみの違いを、
    簡単に図で表したものです。
    まずここで注目したいのが、
    中心の「自己」というものは「身体」である、
    その様な事です。
    この点は後で説明するので覚えておいてください。
    まず「利己」とは、
    他者を犠牲にして自己に利を得る事です。
    そして「利他」とは、
    他者を優先して利を与える事で、
    結果的に自分にも利を得る事です。
    そして重要な「慈しみ」とは、
    そもそも「認知不可能な他者」に対して、
    「利」を与える事です。
    では「認知不可能な他者」とは、
    どの様な「他者」なのでしょうか。
    それを誤解を招くことを前提に、
    理解しやすく勇気を持って説明するならば、
    それは「地球の裏側の他人」です。
    私たちはおそらく、
    私たちが生きている間に、
    一度も会うこともなく、
    また直接的にも間接的にも、
    全く関係する事が一般的にはない、
    その様な「他者」です。
    つまりその「他者」に「利」を与えても、
    まず「自己」が「利」を得ることは不可能です。
    これが誤解を恐れず簡便に説明した、
    「慈しみ」です。
    しかしもっとこの、
    「慈しみ」を踏み込んで解説したい、
    そう思うのです。
    その上で踏まえておくべき事が、
    いくつかあります。
    それは前述した、
    「慈しみ」には「愛」という、
    刹那的体験を通過する必要がある。
    次に「自己」には、
    「自己」の中にある「他者」がある、
    というものです。
    それを図で表したものがあります。

    ※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)

    jiko.png




    先ほど覚えておいてほしいと述べた、
    「自己」とは「身体」である。
    その様なものが図として表しています。
    これは一般的な考え方とはかなり離れていますが、
    慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授、
    である前野隆司教授の、
    受動意識仮説に近いのではないかと、
    勝手に考えています。
    まず私たちが考える「自己」とは、
    ある種の生物学的とか動物的「身体」である。
    その様に定義します。
    その上で、
    私たちが「意識」と考えているものは、
    「他者」として定義します。
    さらに「無意識」を「主体」として定義します。
    この様に定義した上で、
    一般的に一人の人間や人格として扱われる「単位」、
    としての一般的に「自己同一性」を持つ「自己」が、
    その集合として定義できます。
    つまりここで重要な問題は、
    一般的に「自己同一性」を持つ「自己」には、
    「他者」があるという事であり、
    その「他者」は、
    最も「自己」であると自明である「意識」が、
    「他者」であると考える事です。
    そして次の図を見て頂きたい。


    ※添付図参照「愛と慈しみの原理」

    aiitukushimi.png


    ではここからはここまで述べてきたことを前提に、
    「愛」から創造されるものと、
    「慈しみ」から創造されるものの違い、
    その様な事を述べていきたい。
    私は2020年頃から、
    芸術や美術、アートに対しての考えが大きく変化した。
    それは例えば「アート」には社会と合意した、
    「機能」がなければならないとか。
    アーティストとは、
    アーティストとしての「義務」を果たすものである。
    「権利」ばかりを主張するものは、
    そもそも「アーティスト」であり得ないとか。
    その様な移り変わりが起こっており、
    私の文章を長年読んでいる方であれば、
    その変化には当然気づいているであろう。
    その変化の原理として、
    「慈しみ」が大きくあるという事です。
    さらに「愛」という「体験」を通過した人間は、
    「慈しみ」を実践しながら人間の営みを過ごす以外に、
    幸せに生きていけない。
    その様な「真理」に気づいたからです。
    「愛」は「人間」にとって最も尊い体験です。
    だからこそ、
    その「愛」という「体験」を悪いものにしない、
    その様な営みが「慈しみ」なのです。
    「愛」という「体験」は、
    その刹那に「絶対的な欠損の補い合い」という、
    ある種「絶対的な体験」をしてしまうわけです。
    だからこそ、
    その「体験」から「日常の営み」を紡いでいく中で、
    互いに補い合え無い「空白」が表面化し、
    その充足してもらえない事から創造される。
    ある種の「恨み」や「憎悪」が、
    人間を苦しめるわけです。
    しかしその様な「苦しみ」を手放す。
    それが「利」を自己が得る事自体が不可能な、
    「慈しみ」という営みなのです。
    そして私はこの「慈しみ」こそが、
    芸術(アート)を成立させる原理だと考えています。
    芸術(アート)そのものの体験は、
    まさに「愛」の「体験」です。
    これは私が長年に渡って言説している事です。
    それに加えてこれからは、
    芸術作品(アート作品)とは「慈しみ」である。
    その様に私の美学に加えたのです。
    つまりアーティストとは、
    いかに「慈しみ」を創造し得るのか
    その様な問題に真剣に向き合う者である。
    その様に理解できます。
    私は最近「自己愛」や「ナルシズム」に、
    満たされた「アーティスト」や「作品」に出会うと、
    本当に吐き気がするわけです。
    この「自己愛」や「ナルシズム」と、
    「慈しみ」は一見見間違えてしまいそうである、
    しかし全く違うものです。
    それを理解しやすい図が先ほども参照したものです。

    ※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)

    jiko.png




    最後にこの自己の中にある他者との関係における、
    「自己愛やナルシズム」と「慈しみ」の違い、
    それを述べて終わりにしたいと思います。
    自己愛やナルシズムとは、
    意識(他者)から身体(自己)への「愛」です。
    この精神性を原理にしている、
    アーティストや作品が日本では、
    芸術(アート)として広く認知され、
    一般性を有しています。
    その上で「慈しみ」とは、
    身体(自己)から意識(他者)への「慈しみ」です。
    さらに踏み込んで言説するならば、
    意識(他者)への「慈しみ」は、
    無意識(主体)も介入するでしょう。
    この様な「慈しみ」という、
    精神性を原理にしている、
    アーティストや作品は日本では、
    芸術(アート)として認知されない、
    それが現実です。
    ではこの様なことから何が理解できるか。
    それは単純で、
    芸術(アート)とは、
    絶対や完全なものでなく、
    芸術(アート)とは、
    相対的で不完全なものである。
    この様な至極真っ当な現実である。
    つまり芸術(アート)は、
    アーティストや作品、
    という自己や、
    自己の中の他者、
    そして最も遠くの他者。
    その様なあらゆる関係性により、
    芸術は体験する事が可能であり、
    また芸術(アート)は成立し得るのである。
    それはまた愛の体験である。
    つまり、
    自己愛やナルシズムに満ちた、
    アーティストや作品には、
    そもそも、
    それのみで成立するものであり、
    そもそも芸術の前提が無いのである。
    美学者母
    1. 2020/08/24(月) 17:13:04|
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    現在のアートの在りどころ(絶対的アートの終わりと部分的アートの始まり)

    どうも美学者母です。
    世間ではコロナの第二波が来たと、
    その様に言われているみたいですが、
    私自身は自分自身の考えがある上で、
    社会に合わせていかなければならない所は、
    最低限合わせるというスタンスです。
    まぁこんなコロナ騒動の真っ只中で、
    僕的に一番気づく事があったとしたら、
    世の中の人間がいかに、
    「絶対」とか「完全」という概念に、
    洗脳されているのだという驚きと、
    気づきを同時に得たわけです。
    現在では100人いれば100人マスクをしている。
    その様な光景は私にとっては異様な光景であり、
    ある種北朝鮮のマスゲームを観ている様で、
    非常にこの先の日本を憂うわけです。
    例えば洗脳されているものは違えど、
    第二次世界大戦へ向かった当時の日本、
    オウム真理教、
    新興宗教。
    そもそも「絶対」とか「完全」、
    そんな幻想を信じる事も人間の性である。
    その様にも言えるわけですが、
    その様なある種の「信仰」が、
    現在では通用しない時代が訪れている。
    その様な事実も現実としてあります。
    しかし現実として、
    この様な世界や社会を生きているわけで、
    現実的にどの様に生きていくのか、
    それを考え実践していかなければなりません。
    もはや現在の様な状態は、
    それを無視して生きていく事は困難です。
    その様な状況で皆様に少しでも、
    お役に立てる考察を述べていきたいと、
    考えています。

    【添付図参照 相対性と絶対性の転移】

    sz_teni.png


    まず近代は完全に終わったという事実です。
    日本は明治以降に西洋的価値観の元、
    近代的視座を取り入れていったわけです。
    それは例にもれずにアートも同じであり、
    むしろアートというもので、
    国民国家という体制を強化した経緯もあります。
    それが例えば東京藝術大学や日展など、
    現在でもその痕跡が見受けられます。
    それは西洋的価値観に基づく、
    「絶対性」という幻想の構築及び洗脳です。
    それは例えば神や権威、
    さらに科学や芸術というものを、
    ある種「絶対化」させる事で、
    信じる対象を国民に統一させ、
    その上で近代的国民国家を実現させる。
    その様なレトリックにより、
    日本は劇的な成長を実現したのです。
    しかし高度経済成長も終わり、
    バブルが崩壊し、
    経済や科学、文化がある種成熟期に入り、
    その様な「絶対」や「完全」が、
    この「世界」や「社会」において、
    機能しなくなっていることに、
    日本も含め世界中の近代国家を目指した、
    国々で問題が表面化してきている。
    それが正に今回の「コロナ騒動」により、
    より表面化したという状況です。
    その様な近代が終焉し、
    現代という時代が、
    もうすでに20年程度前から始まっている。
    私はその様な考察をおこなっています。
    それはインターネット黎明期と重なっている。
    その様な事にも注意が必要です。
    そして現在、
    どの様な状況にあるのか、
    添付図「相対性と絶対性の転移」でも、
    理解できる様に、
    現代的視座において、
    まだ「絶対」という「信仰」は終わっておらず、
    それは端的に言えば、
    「権威」などから「民衆」に転移した、
    その様な状況が「現代」と言える。
    ここをもう少し考察すると、
    この「権威」を持った「民衆」や「社会」には、
    「人間」という「個人」の実態が無い、
    このポイントは非常に重要です。
    現代の非常に危険な要素として、
    一人一人の人間は民衆や社会を構成しているが、
    一人一人の人間そのものは、
    全く自分たちが「絶対性」や「絶対化」を獲得し、
    ある種自分たちが「権威」を宿した、
    「民衆」や「社会」の一部であるという事に、
    「無自覚」であるという事である。
    この様な現実は、
    特に「インターネット」などで散見される。
    そして逆説的に、
    私の様なアートを専門にしている人間や、
    科学や宗教、
    その様なある種マイノリティーな人間では、
    「絶対」や「完全」というものは、
    「幻想」であると気づいてしまっているのである。
    ここで皆様も気づくであろうが、
    「近代」「現代」においてある種、
    専門家と社会との逆転である。
    まずこの逆転にこそ、
    あらゆる専門家は気づかなければ、
    現代という時代を生き抜いていけないであろう。
    それは現代において、
    「民衆」や「社会」が「絶対的」、
    なものであるからである。
    ではこの様な事から、
    現在においてアートはどの様に可能なのか。
    これは薄々気づきながらも、
    見て見ぬ振りをしているアーティストも、
    非常に多いであろう。
    またそれを実践しているアーティストが、
    村上隆であることも自明である。

    【添付図参照 現在のアートの在りどころ】

    a_aridokoro.png


    添付図でも示した通り、
    明治以降日本は西洋的アートに基づき、
    アートというものを考え実践し、
    それがある種体系化されてきたのである。
    それは私が言うところの、
    絶対・完全(全体としてのアート)である。
    これは端的に言えば、
    アートそのものに絶対性を観る。
    その様なアートである。
    しかし現在は原理的に、
    「絶対」や「完全」はありえないし、
    それは幻想である。
    しかしその「幻想」の「幻影」さえも、
    「民衆」や「社会」が担っているのである。
    もはや「アート」にとって「権威」は、
    「裸の王様」そのものになっているのである。
    その上で現在において可能なアートとは、
    「東洋的アート」なのである。
    この様な東洋への原理の移行は、
    芸術のみならず、
    科学では量子力学、超弦理論。
    経済では分散型、シェアリング、クラウド。
    宗教では仏教、道教、儒教。
    様々な分野において東洋的原理に移行している。
    これは現在において完全なる事実である。
    そしてアートも例にもれない。
    添付図でもある様に、
    アートも全体的アートから、
    部分的アートに移行している。
    またこの様な事実も、
    多くのアーティストが薄々気づいている。
    しかし人間とはその事実に気づいても、
    なかなか自分自身のアイデンティティを、
    否定する事が難しいのも事実である。
    今後この事実に向き合い、
    真摯にその事実に適応していく、
    アーティストしか生き残れないだろう。
    では具体的に部分的アートとはどの様なものか。
    最後にその点を解説して終わりにしたい。
    端的に言えば「アート」に「絶対性」は無く、
    「絶対化」もできない。
    その上で理解しなければならないのは、
    「アート」も他にもれず、
    「関係性」によって成立するのだ、
    という至極真っ当な帰結である。
    つまり「アート」をいかにして、
    「庶民」や「社会」に接合し、
    「機能」を果たせるのか。
    この点が非常に重要であり、
    また社会に対して「能動的押し付け」、
    つまり「私、私。」「俺、俺。」。
    という利己的なものでなく、
    受動的に「庶民」や「社会」が求める、
    ある種のニーズ、
    それはある種の社会から与えられる「義務」、
    その様に言っていいのかもしれない。
    その「義務」を果たすことこそ、
    現在においての「アート」が成立する、
    条件であると私は考えている。
    最近は特に利己的なアートを観ると、
    吐き気がしてくる。
    それはこの時代にはもはや、
    アートではないからである。
    最後に、
    美学者母と哲学者大和の作品を、
    実例として紹介して終わりにする。
    ウェブアート宣言、
    「ウェブインスタレーション」
    インターネットにある言語そのものを、
    アートにした作品。
    (機能)
    皆様がこれを読んでいるという事実の通り、
    文章としての機能を有する。
    「狭山美学校」
    空間やサービス、環境を、
    アート作品にした作品。
    (機能)
    民宿などの機能を有する。
    「お茶と美」
    空間やサービス、環境を、
    アート作品にした作品。
    (機能)
    エステティックサロン、
    リラクゼーションサロン、
    その他サービスの機能を有する。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/08/15(土) 20:54:27|
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    私という分際(黒瀬陽平、津田大介から反省する、私という分際。東浩紀という傘とは何か?)

    あ〜夏本番ですなぁ〜。
    今日は朝から快便でありまして、
    非常に清々しい朝を迎えております。
    そういえば、
    先日、
    大阪大学の公開講義で、
    森村泰昌さんの『コロナと芸術』、
    というのを観させてもらったのですが、
    これが非常に面白かった。
    現在まさにコロナ騒動が、
    ある種社会を強制的にパラダイムシフト、
    させようと騒ぎになっている中で。
    リアルタイムに僕たちに、
    現実的に意味のある内容だった。
    僕はこの様な森村さんの、
    公開講義からも理解できるのは。
    私達には「知恵」が必要であると、
    強く実感するのです。
    「今を生き抜く知恵」です。
    世の中には、
    「知識」をたくさん持った人間は、
    たくさんいますが、
    「知恵」を持っている人間は非常に少ない。
    私はこの「コロナ騒動」の渦中で、
    まさにその様な事を反省している所です。
    まぁそんな41歳の夏なのですがwww
    最近「アート」界隈で、
    えらく騒ぎになっている事が、
    黒瀬陽平の「セクハラ」「パワハラ」問題。
    まず全く無関係の僕が、
    黒瀬陽平の「セクハラ」「パワハラ」問題に、
    何も言えることは無いわけです。
    しかしもっと俯瞰し、
    マクロな視点、
    もしくは社会という視点、
    世界という認識レベルで、
    黒瀬陽平という人間を捉える。
    その様な事は可能なわけです。
    僕自身は「黒瀬陽平」という、
    批評家、美術家には特に興味がなかったので、
    今まで黒瀬陽平やカオスラウンジには、
    言及してこなかったのですが。
    今回この様な「騒動」が起こっており、
    僕の認識にも自然に入ってくるので、
    とりあえず、
    美学者母は黒瀬陽平やカオスラウンジを、
    どう認識しているのか、
    その様な言説を残しておこうと思います。
    まず以前から言説している通り、
    僕のアートの原点は「ストリート」です。
    1998年頃からスケートボード、
    グラフィティライター、
    アート活動を始めています。
    その上で、
    2000年頃には現代アートや現代美術、
    その方向へ転換し、
    2002年には村上隆主催の、
    「GEISAI#2」に参加しています。
    先ほどググッてみた所、
    GEISAIのWEBがまだあり、
    GEISAI#2の出展者一覧で、
    ブースNo.C139にmamaとして、
    まだ記録が残っていましたwww
    この時は隣の方が、
    MAYAMAXX賞を受賞したので、
    凄く覚えておりますwww
    という事で、
    私は村上隆からの流れで、
    東浩紀や黒瀬陽平を認知しました。
    ですので、
    ほぼメディアに出だした、
    初期の頃からずっと観てきています。
    wikiでは、
    黒瀬陽平は2008年に、
    東浩紀にフックアップされているので、
    まぁ初期から知っているとなります。
    そして「カオスラウンジ宣言」が、
    2010年4月に宣言されていますが、
    僕は2010年5月に、
    「ウェブアート宣言」を宣言しています。
    まぁ色々思い返すと懐かしいのですがwww
    それから考えると、
    10年以上はカオスラウンジを観ています。
    その上で言説を進めていくわけですが、
    私はアート活動をしていく上で、
    その当初から「インディペンデント」、
    または「独立独歩」を貫いてきています。
    しかし当然ですが、
    様々な方々にお世話になってきており、
    それは非常に感謝をしているわけです。
    ストリート関係で言えば、
    僕が初めて個展をしたのは、
    スケートボードショップです。
    そのショップのオーナーには、
    かなりお世話になりました。
    また現代アートで言えば、
    非常にお世話になったグループ、
    また美術家の方もおります。
    僕が美術の基礎を学んだのは、
    岸和田の画材屋さんです。
    その画材屋さんのオーナーにも、
    とてもお世話になりました。
    それは美学者母が、
    成長していく上で欠かす事が、
    できないものでした。
    しかし私は、
    自分の人格や定義、
    もっと言えば、
    部分関数の、
    部分としての「我」、
    または「私としての意識」。
    それらを無意識に定義してくる、
    全体というものを、
    特定の個人や団体、
    グループやコミュニティに、
    依存しないという作法を、
    頑なに守ってきました。
    それは「アートの原理」として、
    「自我の自立」「人格の自立」が、
    もっとも「根幹を成す」、
    その様な哲学があるからです。
    私はこの様なコンテクストから、
    今回の黒瀬陽平の問題、
    もっと言えば、
    あいちトリエンナーレでの、
    津田大介の問題。
    それらを纏めて理解する事が、
    原理的に可能だと考えています。
    つまり、
    「黒瀬陽平」然り「津田大介」然り。
    明らかに次元が低い、レベルが低い。
    そしてその次元の低さ、レベルの低さ、
    それを一般的に盲目化させているのが、
    「東浩紀」という、
    「知性」であり「知恵」であり、
    またある種の「権威」であるわけです。
    これは結局、
    「黒瀬陽平」や「津田大介」は、
    「人格や自我の自立」が、
    根本的に成立していない人間だという事で、
    さらにそれは、
    「東浩紀という傘の下」でしか、
    成立していないものである。
    人間は原理的に「傘の下」でしか成立しない。
    だからこそ「自分の分際」を忘却してはならない。
    それは私も同様である。
    しかし自分自身が「傘」になる事、
    それを諦めてはならない、
    「自分の分際」を認知し理解しながら、
    「傘そのもの」になろうとする営み、
    それが「生きる」という事であろう。
    つまり「自分の分際」、
    「自分の傘」を見失った事自体が、
    今回の「黒瀬陽平」であり、
    前回の「津田大介」なのである。
    仏教の教えで、
    「自灯明法灯明」があります。
    自分をともしびとして、
    自分をよりどころとして生きていきなさい。
    法(真理・お釈迦様の教え)を、
    よりどころとして、
    他のものをよりどころにしてはいけません。
    つまり他人というもの、
    それを拠り所にしてはダメである。
    それは「私」という、
    「人間」や「人格」の定義を、
    他人という「人間」に求めず、
    「自分」そのものに求める。
    つまりそれは、
    「覚り」を体験するという事である。
    その修行として私は、
    日々反省し、
    フィードバックし、
    自らをアップデートし続けなければ、
    すぐさま私自身も、
    「私の分際」に対して、
    盲目になるのである。
    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2020/08/03(月) 10:26:58|
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    美術家 「mama」 Official WebSite
    http://www.mamalab.info





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    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

    PC用  http://www.machromatic.net

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