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    machromatic

    machromatic (マクロマティック) 美学者母のブログ

    NHKから国民を守る党(N国党)党首の立花孝志と、世の中の成功者とのある面での共通性(今意味のある事と、目的にとって意味のある事は違う。)

    皆さんはNHKから国民を守る党を知っていますか?
    その党首である立花孝志を知っていますか?
    実は私はかなり昔から立花孝志のYouTubeの視聴者で、
    おそらく何年前か全く覚えていませんが、
    お金が無くてあの手この手でお金を集めている、
    その様な状況で立花孝志が一人で、
    なんやかんやしている頃から観てきています。
    そう言えばなんか怪しい保険?
    NHKに訴えられたら保証するみたいな保険も、
    立花孝志が売っていたのも覚えていますwww

    結構今立花孝志に注目している人って、
    2019年の統一地方選以降に注目しだした人が、
    多いのではないかと思います。

    NHKから国民を守る党が国政政党になり、
    ホリエモンなど大物とコラボしたりと、
    何か革命を起こすのではと思わす位に、
    非常にアクティブに活動されています。

    確かに評価は二分するものの、
    その実績は誰もが認めざるおえない状況ですし、
    僕も長い間、立花孝志を観てきていますが、
    よくもここまできたなと感服しています。

    ここ半年くらい、
    NHKから国民を守る党が非常に注目され、
    それに対する言説や映像など沢山の方々が、
    発信していますが、
    どの方々も立花孝志の現状の成功の形を分析し、
    当然その革新性や逆にその危うさなど、
    現在の表面的な状況を分析している人々がほとんどです。

    しかし私は立花孝志に非常に興味を持つのは、
    その「登りつめ方」なのです。

    立花孝志はどうやって高卒のNHK職員から、
    国政政党の党首まで登りつめたのか、
    これらの事は私の様に一人で活動している、
    あらゆるジャンルの人間にとって、
    非常に意義のある分析内容だと思います。

    立花孝志の「登りつめ方」は、
    実は色々な成功者が実践しており、
    それは私自身も実践している方法であり、
    その一端を皆様に解説していきたいのです。

    まず大きなアウトラインとして、
    「プラグマティズム」という考えが中心をなしています。
    これは「実利主義」とも言えますが、
    つまり実践にこそ意味があるという考えです。

    とにかく自分が興味を持った事や、
    やってみたい事、変えたい事、
    それらを実際の行動で強引に行うのです。

    それは現実的に時にポジティブな事ばかりでなく、
    やりたいことをやるという事は、
    ある意味社会から観れば愚行と映ることが、
    ほとんどなのです。

    だからこそ立花孝志の行動の評価は二分し、
    むしろ肯定より否定が多いのです。

    なぜなら自分のやりたい事、変えたい事、
    というのは往々にして、
    法律や社会の秩序、ルールを逸脱するからです。

    例えば他の成功者で考えると、
    私が尊敬するスティーブジョブズは、
    アメリカのリード大学に入学するも、
    興味の無い必修科目を履修するのが意味が無いと、
    中途退学したが、
    中退した後に自らが興味を持つ科目を聴講した、
    そこにその後成功に重要になった、
    哲学やカリグラフィーと出会う事になる。

    スティーブジョブス自身もここから考えるに、
    プラグマティズム的な思考であり、
    そもそも大学を卒業することが目的では無く、
    自分自身が興味のある、
    自分自身にとって意味のある、
    その様な事を学ぶという行動を実践している。

    しかしこの様にある意味「過去を振り返る」、
    という行為は非常に美化されたものである。
    それをリアルタイムで時間を共有していた、
    近い人間からすれば、
    スティーブジョブズはどうしようもない、
    人間だったことは想像にかたくない。

    それは立花孝志も同じである、
    私は立花孝志を初期の段階から、
    リアルタイムで観てきたが、
    簡単に言うととんでもない人間であるし、
    さらに実践してきていることも、
    非常にグレーな事を多く実践してきている。

    また立花孝志はその実践を出来るだけ多く実践しており、
    立花孝志はそのほとんどに失敗してきているのも、
    私は観てきている。

    これはスティーブジョブズも同じで、
    実践の数だけ、失敗が積み上がっていくのは、
    自然の摂理であるし、
    そのトライアルアンドエラーこそが、
    現在の成功者にとって最も重要であると、
    考えられるのである。

    「今意味のある事と、目的にとって意味のある事」、
    これは全く違うのである。

    例えばスティーブジョブズにとって、
    大学を卒業するだとか、
    必修科目を履修するというのは、
    「今意味のある事」であっただろうが、
    スティーブジョブズの、
    「目的にとって意味の無い事」であって、
    哲学やカリグラフィーというものが、
    スティーブジョブズの、
    「目的にとって意味のある事」であったのだ。

    立花孝志で言えば、
    当選するはずの無い選挙に出馬する事は、
    「今意味のない事」であるが、
    立花孝志の、
    「目的にとって意味のある事」であるのだ。

    つまり以上を整理すると、
    現在の成功者は、
    「今意味のある事」を実践するのでは無く、
    そもそもの「目的にとって意味のある事」を実践する。
    それらが共通する側面である。

    私たち人間は、
    「そもそもの目的」を忘れがちであり、
    周りの雰囲気や勢いに流され、
    波風立てず「今意味のある事」を、
    短絡的に選び、
    「そもそもの目的」からどんどんと、
    離れていってしまうのが現実である。

    今でも立花孝志のYouTubeなどを観るのだが、
    立花孝志を観るたびに、
    プラグマティズムを再度認識する。

    立花孝志の手法は賛否が別れるところではあるが、
    私たちがそこから学べることは、
    「私たちはそもそも何の目的でそれをしているのか?」
    という視点を再度認識させてくれる。

    皆さまも、
    日常を漠然と過ごさず、
    「そもそもの目的」というものを、
    再考してみると、
    自分自身の人生をさらに豊かにできるのでは、
    ないでしょうか。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/11/08(金) 14:23:35|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    芸術という概念の共有は可能か?(あいちトリエンナーレ2019からみる芸術という概念の多様化)

    そもそも芸術のみならず、
    現在の社会や世界全般に、
    あらゆる言語の概念の共有というものが、
    非常に難しい時代になってきている。

    それはある種の「大きな物語」の終焉とも、
    同期する問題ではあるのだが、
    サイエンスやテクノロジーの進歩と共に、
    多くの人々が「情報」と接する媒体、
    つまり「メディア」の多様性が加速し、
    松井みどりが提唱した、
    「マイクロポップ」な時代に突入している。

    ひと昔前では、
    テレビで流された情報は、
    翌日には、
    職場や学校、
    井戸端会議で共通の話題として、
    その情報は「共有」されていたわけであるが、
    現在ではスマートフォンなどを通して、
    数限りないメディアが存在し、
    それぞれ個人が、
    情報を取捨選択し、
    あらゆる人々が共通の「情報」を、
    「共有」しない状況が訪れている。

    こういったある種の「共有の崩壊」は、
    「情報」というマクロなものだけでなく、
    「言語」というある種ミクロであり、
    「共有」というものがアプリオリな領域まで、
    その「共有の崩壊」が起こってきていると、
    私は日々強く感じるのです。

    それは例えば芸術の分野で考えてみると、
    今年非常に物議を呼んだ、
    「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の不自由展」などでも理解できます。

    それは「芸術」という「言語」そのものの「概念」が、
    「大きな物語」的な、
    一つの大きな概念として、
    表現者側にも鑑賞者側にも、
    全く収束していない事、
    それが大きく浮き彫りになったと実感しています。

    それは同時に、
    「芸術」というものの社会的合意が、
    「これは芸術だから」という理由で、
    「共有」できなくなったとも言えます。

    それはさらに、
    「芸術」には「表現の自由」が与えられる、
    というある種の自明性までもが、
    もう通用しない時代なのだと考えています。

    なぜなら、
    「芸術」という「言語」としての「概念」が、
    表現者側でもそれぞれ多様化し、
    鑑賞者側でもそれぞれ多様化すれば、
    そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
    というものがそもそも「定義不可能」であるからであり、
    そもそも「芸術」というものが、
    「社会」で「共有」し得ないものになっているからです。

    この様な事も含めて、
    「あいちトリエンナーレ2019」などを考察すると、
    そもそも「あいちトリエンナーレ2019」は、
    税金が使われている地域芸術祭です。
    つまり税金が使われるという事は、
    「社会的共有」を意味します。
    しかし先述した様に、
    そもそも「芸術」という「言語」としての「概念」、
    それが「社会」で「共有」できないわけですから、
    「税金」を使うべきではないのです。

    これはパブリックアート全般に言える問題とも言えます。

    この様な現状を、
    現在活動している芸術家は早く気づくべきで、
    その事を争っている事自体馬鹿馬鹿しく思うのです。

    私は「言語」というものを「アート」として、
    「造形芸術、「美術」として活動しています、
    それは約10年前に宣言した「ウェブアート宣言」、
    その概念にも含まれていますが、
    「言語」というものが、
    ある種「多様性」「多角性」「多次元性」を持ち、
    言語自体が二次元的次元から三次元的に立ち上がり、
    言語自体が「空間に浮かぶホログラフィック」の様に、
    「造形性」を持っている。
    その様な私の「理論」が実証されてきています。

    「言語」における「概念」というものは、
    一般的にアプリオリに基底されており、
    その「概念」は固定的であり、
    誰もが「共有」しているという事が、
    もはや現在では「崩壊」し、
    「言語」における「概念」が、
    それぞれがそれぞれに解釈し、
    「共有」し得ないものとして現れてきているのです。

    ではその様な現在において、
    どう「芸術は可能なのか?」という事を、
    考えていかなければならないわけです。
    そこで私美学者母と哲学者大和は、
    「狭山美学校」という、
    ある種「プラットフォーム」であり、
    「アートインターフェイス」であり、
    「メディア」であるものを創造しました。

    「狭山美学校」という「屋号」であるのに、
    「民宿」というものを運営している事からも、
    理解できると思うのですが、
    そもそも「学校」という「概念」が崩壊しています。
    さらに言えば私は「美学者母」と名乗っていますが、
    そもそも私は「学者」ではないので、
    「学者」という「概念」が崩壊しています。

    つまりこれこそが、
    私が10年前に宣言した「ウェブアート宣言」に、
    繋がってくるわけで、
    そして皆さんの脳内に存在する、
    「狭山美学校」なり「美学者母」が、
    「ホログラフィック」のごとく、
    立ち上がり造形性を有するのです。

    この様な事から、
    現在において「芸術は可能なのか?」
    という答えは非常にシンプルに可能である、
    と言えるわけです。

    そして「芸術」において、
    非常に重要な「共有」、
    つまり「社会的合意点」というものを、
    どう作り出すのかというものが、
    現在においての「芸術の成立」に、
    もっとも重要であると考えています。

    これからの「芸術」というものは、
    「芸術」を体験する側が、
    「芸術」と気づかずに「芸術」を体験している、
    その様なものが「芸術」になってくるのです。

    それは深遠なレトリックを使い、
    人々の無意識に介入し、
    「芸術体験」を提供する。

    現在の「芸術家」というものは、
    非常に知的な操作をするものであり、
    知性というものを求められる、
    その様な時代になっているのです。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/10/23(水) 20:21:20|
    2. アート
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    芸術ってなんやねん!!!って誰も答えを持ってないから、俺が定義してやってるんだよ。(あいちトリエンナーレ2019から考え直すべき芸術的インフォームド・コンセント)

    最近のニュースで、
    あの問題になっていた、
    「あいちトリエンナーレ2019」の、
    「表現の不自由展」含め、
    全面的に再開するという事です。

    まぁ僕からすると、
    前時代的な争い?闘争?で、
    「非常にくだらない」わけです。

    この件で僕が直接的に受けた被害とすれば、
    僕も一応「アーティスト」と名乗っていますので、
    その「アート」が、
    この社会で「信用」というものを無くし、
    「芸術」というものを、
    また一段と理解できないものにしてしまった、
    その影響で、
    私もその様な「アート」という、
    得体の知れない「モノ」をやっていると、
    一緒に観られてしまうという被害です。

    少なくとも私は「アーティスト」と、
    名乗っていますが、
    「あいちトリエンナーレ2019」に、
    出品している様なアーティストとは、
    完全に別次元に存在していますし、
    「アート」に対する「スタンス」も、
    全く違うので、
    改めてしっかりと、
    その違いをお示ししておきたいのです。

    まず僕は、
    「アート」の「論理的理解」、
    「アート」の「定量的評価」、
    その様な、
    そもそも「アート」をどう定義するのか?
    そもそも「アート」をどう理解するのか?
    その様な事を、
    「普遍的」に研究し、
    これまで「発表」してきています。

    ではなぜ今回の様な「あいちトリエンナーレ2019」、
    の様な事件が起こってしまうのか?
    それはまさに、
    「論理的」「定量的」に扱おうとしないからであり、
    日本では特に、
    「芸術」というものは、
    その様なものでは計れないと思い込んでいる、
    その上で「誰も芸術を定義できない」わけですから、
    当然これは「芸術」なのか?
    という疑義が生まれる事は当たり前の現象です。

    少なくとも私は、
    「論理的」「定量的」に考え得る事は、
    「考え尽くす」ことが絶対的に必要であり、
    そもそも「考える」事を「放棄」することが、
    「芸術」に対する「真剣で真摯」な態度だとは、
    理解できないのです。

    私たち芸術家、アーティストは、
    「おそろしいほど真剣に芸術を考えなければならない」、
    そう考えているのです。

    現在のほぼ全ての芸術家やアーティストは、
    自らの作品が、
    なぜ「芸術」なのかという事を、
    芸術家やアーティスト自身が「理解」していないのです。

    それは日本では自明の事柄ではあるのです、
    例えば日本で芸術家、アーティストとして、
    地位を確立していく上では、
    組織や権威によって価値づけられ、
    その組織や権威によって、
    「芸術家」や「アーティスト」という、
    ある種「免罪符」を手に入れるわけです。

    つまり自分では、
    自分の作品がなぜ「芸術」なのか理解しないまま、
    「芸術家」や「アーティスト」になっています。

    対照的に私「美学者母」はどうでしょうか?
    私は「組織」や「権威」に、
    全く「価値づけ」されたこともありません、
    また「組織」や「権威」に、
    君は「芸術家」とか「アーティスト」などの、
    「免罪符」をもらったわけでもありません。

    では僕は一体なんなのか?
    それは自ら「芸術構造」などを研究し、
    「アート」や「芸術」を、
    「論理的」に理解し、
    「定量的」に価値づける事を、
    自らで自らの作品に行う事で、
    「芸術」を「成立」させているわけです。

    その内容はこの様に文章で社会や世界に、
    「オープンソース」にし、
    「芸術」を「民主的」に「成立」させる、
    試みでもあるわけです。

    現在の現代アート、現代美術では、
    このアートの構造というものを、
    自らの口で語るという事は非常に重要です。

    なぜならば、
    現代アート、現代美術では、
    作品は「金融商品」ですから、
    例えば「金」や「ダイヤモンド」と同じで、
    金の物質的構造、
    ダイヤモンドの物質的構造、
    それが真贋を決定する様に、
    現代アートや現代美術にも、
    「芸術構造」が絶対に必要であり、
    それがあるからこそ「金融商品」になり得るのです。

    ですから、
    日本以外特にアメリカなどでの、
    美術教育というのは、
    いかに自分の作品が「芸術」であるのか、
    その様なディベートが重要視されています。

    最後にまとめ、
    現在の日本のアート業界に全く足りないのは、
    芸術家、アーティストが、
    自らの作品が「芸術」である事を、
    「論理的」に「定量的」に、
    自らの口で社会や世界に説明しない、
    むしろ説明しない事が美徳であり、
    それこそが「芸術」なのだ、
    その様な間違った、
    現在での「アート」の認識が、
    今回の「あいちトリエンナーレ」での、
    「表現の不自由展」などの事件にも、
    繋がってくるわけです。

    そして、
    例えば「表現の不自由展」で展示された、
    問題の作品群が「芸術」であるならば、
    それはその「芸術構造」を、
    「論理的」「定量的」に説明する義務が、
    「芸術家」や「アーティスト」に求められる。

    そしてその「芸術構造」が、
    ある種社会や世界との、
    「芸術的インフォームド・コンセント」として、
    「合意」を得たときに初めて、
    現代においての「芸術は成立」するのである。

    最後に、
    私の目には今回の「あいちトリエンナーレ2019」、
    での「表現の不自由展」の作品群は、
    「アート」や「芸術」、
    「アーティスト」や「芸術家」、
    その様な「免罪符」を「乱用」している様にしか、
    見えないわけです。

    「表現のプロ」であるならば、
    「表現」を「自由」にもっと使えるはずで、
    「表現に不自由」な「人々」の作品を、
    「表現の不自由」というのは、
    それこそ私にとって問題外であるwww

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/10/11(金) 18:10:05|
    2. mama (美学者母) ブログ
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    そもそもアーティストなんてアウトローな存在なのに、憲法や法律で保護してもらおうってのがキモチワルイ。(アーティストとは国家以前性の存在である)

    今「表現の自由」だ!!!
    とか言ってる人とか、
    アーティストでかなりの数の人が、
    ドヤ顔で言ってるのですがwww
    その人達ってそもそも、
    「アーティスト」の資質がないんじゃないだろうか。

    僕が本当に「キモチワルイ」なぁって、
    感じるのは、
    なんで「アーティスト」は、
    「国家」というものを「前提」に、
    「存在」していると思い込んでいるのだろうか?

    そもそも自ら「国家という定義」に、
    「定義」づけられようとしていて、
    「表現の自由」というもの自体も、
    「国家」における理念や意志なわけだ。

    僕の目から見ると、
    「表現の自由」だ!!!!
    って言ってる人ほど、
    本当に「自由」を獲得したいのか?
    と疑問に感じてしまうのねwww

    だって「自由」って叫んでる割には、
    「国家」というものに囚われてるわけじゃない?

    僕からすると本当に意味不明なんだわwww

    そもそも「アート」とか「表現」が、
    「国家」ってものを前提に定義されるのか?
    って事ね。
    「アート」とか「表現」ってのは、
    「人間」の「原理的欲動」であって、
    それは「国家」というものが、
    前提ではないわけです。

    そしてアーティストというのは、
    「自らの欲動」を「表現」するわけですが、
    その欲動というのは、
    その時代その時代のルールから、
    つまり「憲法」や「法律」から逸脱するのも、
    ある意味仕方のない事であり、
    それがある種の「アート」としての、
    役割でもあるのです。

    つまりアーティストが、
    「法を犯す」というのは、
    「表現者」「創造者」として自明であり、
    それを「恐る」事自体が、
    アーティストとして失格であると、
    僕は考えています。

    それはつまり、
    「アート」や「表現」が、
    「国家以前性」のものであるからであり、
    「国家」というものを「前提」に、
    存在するものではないからです。

    その様な事から理解できるのは、
    そもそも「アーティスト」というのは、
    一般社会からすれば、
    「アウトロー」な存在であるはずなのであり、
    その「国」の「憲法」や「法律」に、
    守られようとする事自体が、
    「アーティスト」として「ナンセンス」、
    である事が理解できると思います。

    私はそもそも、
    この「国家」において、
    「犯罪者」になることを全く恐れていませんし、
    実際に「その様な行為」も行ってきました、
    それが「善いとか悪い」では無く、
    それは「アート」や「表現」が、
    「国家以前性」のものであり、
    それが「アート」や「表現」というものであるのです。

    現在の日本のアートというのが、
    「国家」を前提にし、
    「国家」に守られ、
    「国家」を「権威の担保」としている限り、
    日本の「アート」は発展しないのでしょう。

    例えばこんな話もあります。
    外国から来た知識人が、
    どうして日本はこんなに「落書き」が少ないんだ、
    日本の若者たちは一体何をしてるんだ?

    この事は何を表しているのでしょうか?

    この様な「表現の自由」という、
    非常にコンサバティブな事自体が問題になる、
    日本のアートというのは、
    実は非常に「遅れている」わけです。
    それはある種「国家主義」的な考えが、
    自明性を持ち、
    あらゆるものが、
    「国家」を前提にされている。
    そもそも「国家」を前提にした「アート」、
    それ自身が「権威主義」であり、
    まさに「あいちトリエンナーレ2019」で、
    問題になっている「表現の自由」の問題は、
    「国家の政治」であり、
    「権威の覇権」であり、
    「ヘモゲニー」の争いであるわけです。

    国家を前提にした「アート」は、
    そもそも「政治」であることは、
    「自明」であるのです。

    そもそも「アウトロー」である、
    「アート」が、
    「国家主義」的「体制」に取り込まれている、
    それに反してテクノロジーやサイエンスが、
    「アート」が担ってきた、
    その様な役割を担ってきているのが現在です。

    テクノロジーやサイエンスでは、
    テクノロジーやサイエンスの進歩や、
    インターネットの普及で、
    国家という前提が無い世界が、
    大きく広がっています。

    そこから創造されたものは、
    憲法や法律を犯しているものも多くあり、
    それに合わせて、
    ルールが変わる事も多く見られます。

    例えば日本では、
    Winnyを作った金子勇などは、
    警察に逮捕、起訴されたが、
    最高裁が検察側の上告を棄却し、
    無罪になった。

    ではそもそもWinnyは、
    国家を前提にして生み出されたものだろうか?
    いやもっと言うと、
    そもそも国家を前提にして、
    そんなものは創造しえなかったであろう。

    そこから何が理解できるのか、
    私たちは「国家」というものを「前提」に、
    する事で、
    ある種の「クリエイティビティ」を奪われるのである。

    それは、
    「国家を前提にしない」という事で、
    初めて産まれてくる「創造性」があるからなのだ。

    それがまさに、
    テクノロジーやサイエンスで起こっている、
    「イノベーション」なのである。

    つまりこの様な事から、
    「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の自由」の問題がクリアになってくる。

    それは現在の「日本のアート」は、
    インターネット以前の価値観、
    つまり「国家を前提」としたもので、
    「アート」を考えているという事である。

    つまりそれは、
    「体制」と「反体制」という対立軸があり、
    「政治」が発生し、
    「権威」を信仰し、
    「スローガン」で動員する。

    なんとも古めかしいものである。

    インターネットが普及して20年、
    私が「ウェブアート宣言」を発表して10年、

    あと何年日本のアートが変わるのに必要だろうか?

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/29(日) 15:34:05|
    2. 美学・哲学
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    あいちトリエンナーレ2019でアーティストたちが言う表現の自由ってもうなんなのか解らなくなってるのはなぜだろうwww(いつまでアーティストは夢想を語るのか?)

    少なくとも一人のアーティスト、
    アート活動をしている人間として言うと、
    「表現の自由」なんて考えもしないし、
    はっきり言ってどうでもいいwww

    それはなぜか、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    僕は、

    「自分が表現したいものは絶対に創る」

    のであって、
    「表現の自由」なんてどうでもいい。

    例えば日本でキリスト教が禁止されてた時に、
    「隠れキリシタン」がいたわけで、
    すなわち表現とはそういう類のものであるわけです。

    それはどういう事かというと、
    つまり主体をどこに持つのかという事、
    例えば「隠れキリシタン」は、
    「己の信仰」を守ってそれを「表現」していた。
    それは「信仰の主体」が「個人」にあり、
    「個人」としての「信仰」、
    「個人の表現の自由」を守ったわけだ。

    しかし今問題になっている、
    「あいちトリエンナーレ2019」で問題になっている、
    「表現の自由」って全然違うよね、
    もはや「表現の自由」というスローガンの為の運動で、
    そこには「個人」としての「表現の自由」は関係ない。

    体制と反体制という構図を演出して、
    「表現の自由」というスローガンを利用し、
    ただ「体制批判」したいという、
    もう「芸術」とは程遠いものであるわけです。

    正に日本の「戦後体制」「戦後教育」の、
    行き着いた場所というべき「あいちトリエンナーレ2019」。

    僕の言葉で言えば、
    現在もアーティストと呼ばれる人々は、
    1970年代前後のベトナム反戦運動などの時代、
    つまりウッドストックに代表されるロックや、
    ヒッピーのムーブメントを、
    いまだに展開しているというかなり、
    時代が遅れている人達なんだねwww
    それを「ロックの時代」の人々と言ってるわけ。

    そしてそのロック自体の様式も、
    観客とステージは分離され、
    ステージは観客よりも高く、
    バンドセットという演奏を必要とする、
    つまりある種の演奏というものを学ぶという事は、
    エスタブリッシュメントを意味し、
    その様式は正に「体制」と「反体制」という、
    構造を作り出しているわけなのです。

    それに反し、
    現在の若者たちというのは、
    「ヒップホップの時代」の人々なわけです。

    そして僕は1978年生まれですが、
    日本のヒップホップ黎明期から、
    ヒップホップカルチャーに属し、
    実際にグラフィティライターをしていました。

    この「ヒップホップの時代」の人々は、
    「ロックの時代」の人々とどう違うのか、
    それは「ロック」というのは「夢想」を歌うわけですが、
    「ヒップホップ」は「リアル」をラップするわけです。

    それは哲学思想的に言えば、
    「プラグマティズム」的であると言えます。

    現在の世界を考えてもそうですが、
    日本の若者達ももれなく「実利」を、
    「意味ある事」として生きているわけです。
    「ロック」の様に「夢想」を歌っていても、
    「世界は変わらない」事を知っているのです。

    またヒップホップ時代の様式も、
    ロックとは違い、
    まず演奏を必要としません。
    更にラッパーと観客との間には、
    ステージという段差は無く、
    誰もがラッパーとして、
    ラップし始めることができる。
    その様な様式は、
    ロックの様に「体制」と「反体制」という、
    「分離」では無く、
    それぞれの個人が「主体」として、
    時には「観客」になり、
    時には「ラッパー」になる。
    すなわちそれぞれ「個人」が、
    その現場の「当事者」であるわけです。

    この様な事は決して「アートの世界」でも、
    例外ではありません。

    例えばバンクシーを考えてみてください。
    バンクシーは「アートの世界」でも、
    非常に重要なアーティストですが、
    彼はヒップホップカルチャーの、
    グラフィティライターなのです。

    彼はイギリスはもとより、
    世界中の壁に落書きをしています。
    それは正に「犯罪」であるわけです。
    しかしバンクシーのその落書きは、
    貴重に保存されたり、
    その壁ごとオークションで売られたり、
    その壁が観光名所になったりしています。

    ではバンクシーにとって、
    「表現の自由」とはなんでしょうか?
    それは、
    バンクシーにとって「表現の自由」なんて、
    どうでもいい事です。

    「表現の自由」そのものが、
    国家の理念であり意志なわけです。
    そもそも「国家自体が夢想」であり、
    その「夢想である国家」が持つ、
    「理念や意志」もまた「夢想」なのです。

    それよりも、
    現実的に自分自身が、
    国の憲法や法律がどうとか、
    自分が警察に捕まろうが、
    誰かに訴えられようが、
    どう世界に、
    どう社会に、
    影響を与えるのか、
    どの様な「機能」を有するのか、
    それが「ヒップホップの時代」では重要であり、
    「リアル」に「アクション」する事こそが、
    「善」であるのです。

    「もはや時代遅れである」

    悲しい事に、
    アーティストというのは、
    世の中で誰よりも早く、
    時代というものを読まなければならない、
    そいう存在であるわけですが、
    現在の日本のアーティストというのは、
    よりいっそう「時代遅れ」である、
    その様な現状です。

    先日文化庁が補助金を停止する、
    その様な事でまた、
    「表現の自由」の侵害だとか、
    まじ日本のアーティストたち、
    真面目に頭を使って本質を考えようwww

    まさに現在の「あいちトリエンナーレ2019」での、
    「表現の自由」というものが、
    「プラグマティズム」的な目的の転移を起こしている。

    「表現の自由」の為の「表現の自由」、
    目眩がするほど時代遅れ。

    「表現の自由」なんか糞どうでもいい、
    バンクシーでも例え話をしたのだが、
    「表現の自由」という言葉や意味、
    概念に囚われている事こそ、
    「本末転倒」である事になぜ気づかないのか?

    これを読んで頂いた方々には、
    ぜひ「表現の自由」という言葉や意味、
    概念の外側へ世界を広げてほしい。

    美学者母

    テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

    1. 2019/09/27(金) 19:10:12|
    2. アート
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    mama Artist Promotion Video
    http://www.youtube.com/watch?v=mR12s6MhMS8



    美術家 「mama」 Official WebSite
    http://www.mamalab.info





    facebook
    http://facebook.com/machromatic






    COMPOSITE ART COMPANY "machromatic"
    マクロマティックは大阪・岸和田に拠点を置く総合芸術企業です

    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会



    マクロマティック心理芸術療法研究所
    http://www.artstherapy.biz/







    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    本日、2010年5月9日。
    インターネットという虚像と実像が共存する場。
    虚像と実像が表裏一体であり、媒介する。
    その媒介した場所が空虚である。
    インターネット上のウェブはまさに空虚である。
    その空虚であるウェブで。
    己が己である事を確認し。
    ウェブインスタレーションと定義する。

    http://www.machromatic.net

            現代美術作家 田中智和
                   (mama)






    Macromatic is an composite art enterprise in Kishiwada city, Osaka area.



    "Web art declaration"

    Today, May9th,2010
    Place where the internet exists together between virtual image and real image.
    The virtual image and the real image are consistencies, and it mediates.
    The mediated place is empty.
    The web on the Internet is exactly empty.
    With the empty web.
    The thing whose yourself is yourself is confirmed.
    It is defined as the web installation.

    http://www.machromatic.net

    Artist Tomokazu Tanaka (aka.mama)
















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    SELECT ART SHOP マクロマティック
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    http://twitter.com/machromatic

    skype名 machromatic




    office
    〒596-0021
    大阪府岸和田市松風町25-18
    美術商 第622122106978号 大阪府公安委員会
    TEL/FAX 072-447-4066
    MAIL office@machromatic.net





    【本名】田中智和 (mama、母)
    現代美術作家・アートディレクター
    (専門分野)
    ストリートアート・ストリートカルチャー

    日本会議 正会員

    One JAPAN project 代表
    http://www.onejapan.jp

    Art×Street(日本アート×ストリート協会)
    http://artxstreet.com



    【略歴】

    ※1978年
    ・大阪府岸和田市に生まれる

    ※1994年 
    ・鳥取県へ移住

    ※1996年 
    ・スケートボードをはじめる

    ※1997年 
    ・大阪に帰ってくる
    ・アーティスト活動開始

    ※1998年 
    ・グラフィティライターとしてストリートで活動開始

    ※2002年6月 
    ・大阪のスケートボードショップOVAL NETWORKで個展

    ※2002年7月 
    ・大阪の古着屋MAX FIELDで個展

    ※2002年8月 
    ・村上 隆が主催するアートイベント 「GEISAI-2」(東京)に参加

    ※2003年7月 
    ・大阪のclub NEOのクラブイベント「NEO SUMMER FESTIVAL」に参加

    ※2004年6月 
    ・大阪・岸和田の岸和田中央会館ギャラリーで個展
            mama Art Show 2004 「春 風 花」

    ※2005年5月 
    ・大阪・岸和田の町家 光輪庵で二人展
       machromatic Art Show 2005 「こころ、であう。」

    ※2005年12月 
    ・大阪府公園協会・泉佐野市公園緑化協会主催
    「Twinkle Park in Rinku 2005」でアートパフォーマンス

    ※2006年4月 
    ・「第3回 ART BASE NULL 作家交流展」(泉佐野 新井邸)に参加
       後援 大阪府、大阪府教育委員会など。
    ・遊び心創作家として活動開始

    ※2006年9月 
    ・主催 文化庁 共催 田尻町教育委員会
     「こどもアート体験 北欧~日本展」参加

    ※2006年11月
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    2007年4月
    ・東京・下北沢のclub WEDGのアートイベント参加
      1seam「New Born Babys☆」

    ※2007年5月 
    ・第4回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2007年10月 
    ・食の専門学校レコール・バンタン臨時講師(大阪市)
     展覧会「食とアートのコラボレーション」プロデュース

    ※2007年12月 
    ・Joint Art Battle -JAB-(富山)参加

    ※2008年5月 
    ・第5回 ART BASE NULL 作家交流展(泉南市 山田家)に参加
      後援 大阪府、大阪府教育委員会など。

    ※2008年6月
    大阪・大阪市中央区「ぎゃらり かのこ」で個展
      mama exhibition「アートバイブレーション」

    ※2009年11月
    東京・有楽町でのアートフェア
       「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.2」参加

    ※2010年5月
    『ウェブアート宣言』(Web art declaration)

    ※2010年6月
    雑誌「プライベートアイズ」の特集へ参加
    きこえをアートする デコレーション補聴器の作品提供





    ■■ machromaticホームページ ■■

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